私たちが「この人はどんな人だろう?」と思い、「わかった!」と感じたとき、自分の中で何が起きているのかといえば、

相手の肩書や主義主張などを何となくザックリと把握したうえで、過去に出会ってきた似たようなひとや、メディアやフィクションで見かけたキャラクターなどを適宜引っ張り出してきて、目の前のひとに対して「私なりのレッテル」を貼っているに過ぎません。

どれだけ、「私は相手にレッテルを貼らないように気をつけている」と主張してみても、必ず多かれ少なかれ誰もが瞬間的に行なっている行為です。

なぜなら、自分の中でそうやって相手に対する認識が少しでも定まらない限り、いつまでも相手とコミュニケーションを開始することができないからです。

それが私たちの中で、他者を「わかった!」と感じているときの状態です。

ーーー

しかし、それは徹頭徹尾「私の勝手な認識」に過ぎません。

間違いなく、相手とのあいだに認識の齟齬やズレが生じてしまっている。

そのズレが、相手の自己認識から大きくズレていれば、「それは間違っているから、訂正してくれ!」という話になるのだと思うのですが、

その相手が正したいと感じている「私の認識」もまた、相手の中に存在する「このひとは私のことをこのように認識しているであろう」という推測から生じるものであり、つまり、そこには二重のズレが生じてしまっている状態と言えます。

対人関係であれば、それは当事者同士だけの問題ですが、これが幾重にもかさなってズレていくのが人間社会です。

ーーー

お互いの観ている景色や前提知識などが、絶対に共有できないことを考えると、この認識の齟齬やズレは一生埋められません。

そこに絶対性などはあり得ず、あくまで「正しく認識し合っている」という仮合意のもと、何事も進めているだけです。

だとすれば、相手との関係性の中で暫定的に仮決めしたそんな認識が、「相手の本質」だと誤解して、相手を完全に理解したと思うことが、いかにバカげていることかがわかってくるかと思います。

ーーー

逆の視点から言えば、自分が接してきた人間の数だけ「私」もそうやって、他者から認識されているわけです。

それを正そうとしてみたところで、決して正すことはできないということが理解してもらえるのではないでしょうか。

そうすると、開き直りでも強がりでもなく、本当の意味で「相手からどう思われていようと関係ない」と思えるようになってくるはずなのです。

ーーー

どれだけ身近な人間、たとえば「家族」であってもこの不一致だけは、一生涯続いていく。

人間同士は本当の意味では決して分かり合えず、対人関係はズレを伴ったまま平行線で進んでいく。

だったら、相手のことは「わからない」という大前提のもと、常に他者と共に歩んでいきたい。

いつもこのブログを読んでいる方にとっても、今日のお話が何かしらの考えるきっかけとなったら幸いです。