ここ最近たびたびご紹介しているご哲学者・苫野一徳さんと竹田青嗣さんの対談本『伝授! 哲学の極意: 本質から考えるとはどういうことか』。
この本の中で、改めて僕自身も考えてみたいなと思う、とってもおもしろい話が語られていました。
それが、「贈与」について。
本書の中では、贈与とは倫理的(道徳的)対抗言論であり、実効性がなく、ロマンチックな話に過ぎないと書かれてありました。
でも、本当に贈与は倫理的な規範に過ぎないのか。
今日はこの問いについて、自分なりに考えてみたいなと思います。
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この点、苫野さんは「贈与」は地域共同体などでは実際に成立していると語ります。たとえば、ご自身が熊本で畑をしていたときも、たしかに日常的に贈与的な関係が見られたといいます。
しかし「九十九人が互酬性を大事にしていても、一人の戦争主義者が現れれば、その文化は壊されてしまう」とし、贈与を世界的に一般化するのは難しいと指摘します。
これに呼応して、竹田さんも「贈与」は、典型的に現実の論理に対する「道徳的対抗」の一つですと明確に位置づけていました。
そして以下のように語ります。少し本書から引用してみます。
いま苫野くんがいったように、道徳主義者(羊)が九十九人いても一人の闘争主義者(狼)がいたら、世界はその闘争主義者の支配に帰する。実際にあったことですが、一本のアイスピックで、何百人の乗客が乗った飛行機を長い間ハイジャックした人間がいました。
(中略)
哲学の原理としては、世の中は放っておくと暴力による覇権者の支配構造になる。それを抑止する原理は、九十九人が相互承認し力を合わせてその一人を実力で排除するほかにない。これが「自由な市民社会」の原理ですね。道徳や善意をいくら強調しても暴力や支配に対抗することは決してできない。
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このおふたりのお話は、ぐうの音も出ない程に正論だなと思います。
贈与の概念だけでは現実世界は何も変わらないし、むしろそのような道徳的・倫理的に対抗しようとするような人間ほど、権力者にとって扱いやすい存在に成り下がってしまう。
そして、お二人の結論として「そもそも贈与が格差や支配をなくす原理になるというのは、あまりにロマンチックな表象です」と語られていて、本当にそうだなあと思います。
現実の社会に対して贈与という概念はあまりに無力であり、僕みたいな贈与好きな人間は「贈与に希望を抱いてしまい、ごめんなさい」と、とても深く反省してしまいました。
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ただ、ここで少し話が逸れて、自分ごとの話になってくるのですが、Wasei Salonは未だに、そんな狼が一度も入ってきたことがない場所でもあります。
これは本当にありがたいことです。
もちろん、その要因は「小さなコミュニティに過ぎないから」という理由は大きいとは思いつつ、でもきっと初期の頃はいたと思います。狼のように、人を騙そうと思って入ってきたひと。
少なくとも、自分のエゴのために用いようという人はいたはず。
でも、彼らも次第に今のような文化や倫理観が確立していく中で、居心地が悪くなってか、すぐに退会していきました。
もしくは、99匹の羊たちと出会い、狼も羊として生きることのほうが、実は心地よいということに気づいてくれたのだと思います。だから元・狼は、今も結構いるんじゃないか。
そもそも、空気に流されやすい日本人は、99匹が羊でいるのに、ひとりだけ狼でいるような勇気もないと思うんですよね。だとしたら、その「空気」をつくった者勝ちだなあとも思います。
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もちろん、とはいえWasei Salonという空間が、世界としての理想だとも思っていないし、世界全体がこうなればいいとも決して思ってはいません。
むしろ、世界全体は絶対にこうはならないんだ、ということも自ら運営しているからこそ、深く理解できる。
世界に対する完全な諦めが、そこにはあります。そして深い絶望なんかも抱えている。
実際問題、過去に何度もこのブログで言及してきたトークンエコノミーや贈与経済みたいなものも、未だに世間ではまったく実現していないのが現状です。
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でも、だからこそ現実の大きな世界を縮減したある種の理想郷的な空間として、小さなセカイをここにつくりだす必要があるし、実際に僕は、それを実行したいんだろうなあと思いました。
ここが今日の僕の一番の主張でもあります。
この点、人は贈与という可能性に絶望したとき、大きく分けて2つのアプローチを行うと思っています。
ひとつは、現実主義に振り切ること。そして、その現実世界の残酷さに迎合して「世界は残酷なんだから、騙したもん勝ちだ!」と開き直るか、徹底的に原理まで突き詰めて、一つの隙もない理想的な法治国家を目指すか。
でも、もうひとつは「理想を忘れない現実主義」の姿を問い続けることです。
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もちろん、僕が選びたいのは、後者のアプローチです。
オープンな世界では確かに贈与は完全に無力かもしれない。でも、それが「小さな現実」として結実している「小さなセカイ」の役割だって間違いなくあるはずで。
それが、きっと喫茶去精神の話にもつながるんじゃないかと思っています。
他にも、最近繰り返し言及している「夢の中(物語の中)で、責任がはじまる」という言葉の意味も、きっとここにつながるはず。
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外の世界の荒波に揉まれて「ほら、やっぱり期待なんかしてもダメだったじゃないか!」うなだれて絶望する。
そして、いつの間にか、自分自身も狼に変身してしまう。それも立派な生き方です。ひとつのマキャベリズム的な生き方だと思うし、素晴らしい。
もしくは、「贈与?眠たいこと言ってんじゃねえ、99匹の羊がいても、一人の狼がいればただの夢物語だ。そうじゃなくて構造だ、仕組みだ、法律だ!」ってなる。
そして、狼が悪事をなした時に、99匹の羊で協力をして、適切に排除できる社会を構築しようとする。
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でも僕としては、「理想を忘れない現実主義」として歩みたいし、まわりのひとにもそうやって歩んでみて欲しいなと強く思うんですよね。
だって、誰よりも僕自身がこの場で変わらせてもらったから。
20代前半までの若い頃は「見るからに冷たそう、言葉数が少ない、合理的すぎる」そして法学部出身で法律(仕組みやルール、構造)がすべてだと本気で思っていました。
そしてそれこそが、現実主義的だとも思っていた。
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でも今は違う。
ありがたいことに「優しそう、言葉遣いが丁寧」と他者から呼びかけてもらえる機会なんかも増えてきて、それを言ってもらうたびに、自分でも他人事のように驚きます。
で、今は社会や他人がどうあろうと、自分は自分がなすべきだと思うことを淡々となそうと思える。
それは、みなさんに変えてもらったから。だとすれば、僕もそうやってみなさんにちゃんと恩返しをしていきたい。
具体的には、オープンな世界で贈与を行い、結果として裏切られた人がいたとして、そうやって傷ついたひとに対しても、小さなセカイで寄り添いながら、また再び歩みだす勇気を与えて諦めずに「行ってらっしゃい」って送り出したい。
そういうスタンスで生きている人を励ましたいし、勇気づけをしたい。「あなたは決して間違っていない」と。
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繰り返すけれど、現実問題として「贈与」を実現することは不可能。だから哲学原理として、贈与の概念はあまりに脆い。贈与なんてただのロマンです。
でも、その話と、小さなセカイを自分たちで立ち上げて、ファンタジーや物語として「贈与」を考えてみることにも、同程度に価値がないかと言えば、決してそうではないと思っています。それとこれとは、全く別問題。
あと、これはうまく言えないのですが、そこにこそ人間の人間たる価値が眠っているなあとも思っています。
絶対にうまく行かないとわかっていても、それでも立ち向かえるのが人間の強さでもあり、弱さでもあると思うんですよね。
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というか、そもそも世の中にそういう共同体がないからこそ、世の中はより一層そっち側に傾倒してしまう。世の中に狼が生まれる原因でもある。まさに鶏と卵の関係です。
放っておけば、みんな絶望して、羊から狼に変わってしまう。
あと、この感覚は、古事記の中であの有名なイザナギとイザナミのやり取りの話にも似ているなと思っています。
イザナミが黄泉の国から「私はあなたの国の人を、1日に1000人殺してやります。」と言い放つ。
ソレに対して、黄泉の国からなんとか逃げ帰ってきたイザナギは「それなら私は、1日に1500人産もう。」と言い放つ。
この感覚にとっても近い感覚です。
殺されることは避けられないかもしれないけれど、それ以上のスピードで産めるかもしれない。
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もちろん、自分のほうが多く産み出せるとは思わないけれど、少なくとも殺されるなら諦めようとか、自分も殺す側に回ろうとかは、決して思わない。
それが残酷な現実だったら、それが少しでも和らぐためにはどうすればいいのか、その理想を必死に考えながら、でも死なない程度に現実的に生きよう、とも思う。
でもまあ、この発想こそがロマン的だということなんだろうなあとは思うけれども。
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Wasei Salonは、そのロマンに共感できる人同士で励まし合いたい。
世界が荒地で不毛な土地だからと言って、自分たちに与えられている土地を耕さない理由にはならないし、花を植えてはいけない理由にもならないはずです。
季節が巡れば、花が枯れるということが自然の摂理であり、圧倒的な現実であろうとも、そして原理的にいつでも花が咲いている状態は不可能だとしても、種を撒き続けようと思う。
たとえ、予想通りに花はすぐに枯れてしまっても、そこに花が一瞬でも咲いたという事実は、きっと誰かの心に残ってくれるはずだから。
それが「私たちの”はたらく”を問い続ける」ということに込めた意味でもあるなと思っています。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。