最近、橋本治さんの書籍『宗教なんかこわくない』を読み終えました。

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読み進めるうちに、時代が変わっても、人が求めるものは変わらない。そして、人が抱える不安や悩みも、根本的には変わらない、そんなことをあらためて実感させられる本でした。

橋本さん曰く、「宗教とはなにか?」という問いは、言い換えれば「人はなにを求めるのか?」という問いと重なるのだ、と。

そして、人が求めているのは、結局のところ“幸福”。もう少し厳密に言えば、“自分にとっての幸福”。違いがあるとすれば、それぞれが定義する「幸福」の中身だけなのだと橋本さんは書かれています。

この本では、そんな問いを出発点にしながら「人間がなぜ宗教を求めるのか」その「こころのしくみ」について語られていきます。それが、本当にめちゃくちゃおもしろかったです。

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で、本書が書かれたのは1999年であり、主に語られているのはオウム真理教事件などを背景とした、当時の日本における宗教観です。

しかし、AIもスマホもなかったこの時代に書かれたこの本を、僕はついつい“AIと人間”の関係性に置き換えて、読み進めてしまいました。

具体的には、神が死んだあと、人間はどこに「信仰」を求めるのか。

その古くて新しい問いに対する応答が、いま僕たちの前に現れているAIそのものなのではないか、と。

今日は、そんなお話です。

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この点、いまの世の中に蔓延るような「AIに対して適切な問いや質問を与えて、AIからその回答を素早く得よう!」という主張は、もうそのまんま「宗教」の信仰心のように、僕には見えてしまいます。

でも、そうやって主張している人たちほど、自分たちが宗教から一番遠い最先端テクノロジーを駆使しているつもりかもしれないけれど、やっていることはものすごく古典的だなあと思います。

もちろん、古典的であることがダメだといいたいんじゃなくて、それが宗教にすがる人間と全く一緒の態度であり、姿勢なんだってことをよくよく理解しておきたいなあと思うわけです。

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じゃあ、そもそも、宗教や神にすがりたくなる人間の「不安」や「悩み」とは一体何なのか。

このあたりが本書の一番素晴らしい部分、そして著者の橋本治さんの一番筆がのっている部分でもあります。

橋本さんは、まず以下のように述べます。

「人間が宗教を求めるのは、『何かを信じたい』からだ。もっと言えば、『信じることによって、自分の不安や悩みを解決したい』からだ」と。

では、なぜ人は不安や悩みを抱えるのか?それは、「このままの自分でいいのか?」という漠然とした疑問を誰しもが抱えているからだと橋本さんは語ります。

そして、その疑問に対する答えはそう簡単には出てこない。だからこそ、宗教は「簡単な答え」を差し出してくる。

僕はこれをまさにAIと人間の関係性に読み替えてしまったんです。いま、AIに問いを投げて即答を得るという行為は、宗教を「信じる」こととほとんど変わらない。

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そして、橋本さんは、人間が悩みを抱えるとき、他者と自分を比較し、「自分だけが劣っているのではないか」と、勝手に思い込みやすいとも言います。

「他人はもう、自分の抱えている不安や悩みをクリアしてしまっているのではないか?」と考えてしまう。『自分は一人でグズグズしているだけではないか?』と。

これが、最大の落とし穴である、と。

そしてこう続けます。

つまり、「こういう悩み、不安とも言えないような不安を抱えている自分は、もしかしたら、根本的に間違った考え方をしてしまっているのではないか?」と、あなた自身が考えてしまっているということだ。
「そんなことはない」とは、誰にも言えない。あなたは"間違った考え方"をしているかもしれないし、していないかもしれない。それとは関係なく、ただ一つだけはっきり言えることは、今<”悩み”とか”不安”というものは、いつも当人にとっては、「これが不安なのか悩みなのかよく分かんないんだけど・••・・」という形で訪れる>ということだ。「悩みや不安は、はっきりしないから悩み”や不安”になる」ということ。それともう一つ、「悩みや不安という輪郭のはっきりしないものは、それゆえにこそ、そうそう簡単に解決しない」と。


これはまさに、今のSNSやAIを巡る社会の風景そのものじゃないかと思うのです。

「あなたが『どこかに答えを簡単に出してくれる人がいるのではないか?』と思っているなら、あなたは宗教のすぐそばにいる」と橋本治さんはこの話を終えているのですが、現代人は自分で考えるのではなく、AIが「即答」してくれることを待ち望んでいる。

その構造を「便利」と呼ぶか、「信仰」と呼ぶかは、もう完全に紙一重です。

で、橋本さんは言い切ります。「日本人に一番必要なのは“宗教”ではなく、“自分の頭でものを考える習性”である。それはとんでもなく大変で、効率の悪いことだ。」ど。

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人間は、すぐに答えを得ることで安心したいし、このAI時代には、もはや本を自ら通読して、自分で考える(自分で文章を書く)必要もないと、叫ばれていしまっている。

でも、本来、答えは時間をかけて、自己の身体を通して問い続けながらしか見つからないものです。

AIはどこまでいっても、つまみ食いでしかない。そして、つまみ食いだから、すぐに他者の意見に触れてクルッと手のひらをひっくり返すようにもなる。

それは単に「情報処理」であって、養老孟司さんが語るように、自分で「情報化」をするためには、自分で通読して五感で味わい、それを身体から頭に対して「わかれ!」って言いながら、自ら書かないといけない。

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あと、同じ著者の本を大量に読むと、自分の読み方自体にも自信が持てて、他者の意見も同時に尊重できるようになるなと思います。

たとえば、僕にとって村上春樹作品とかはとてもわかりやすい。「100分de名著」などに出てくる講師の方の解釈を聴きながら「自分はこう考えるけれど、なるほど、そんな解釈もあるんだ」と素直に思える。

「あー、そういう解釈もあるかもしれない」という揺るがない自信が、僕の中にある。それは去年、散々読みまくったからです。

もしこれが、AIに対して「村上春樹作品の魅力はどこ?」とか「村上春樹の井戸や地下二階、壁抜けのメタファーってなに?」って聴いて、たとえ完璧な答えが返ってきて、それを知識として知っていたとしても、こうはならない。

むしろ、より権威的な意見が聞こえてきたら、コロッとそちらの意見に乗り換えて、権威にすり寄るはずなんです。

もちろん、これは自分の意見に意固地になるとか自分の考えに固執するとかではありません。そこはくれぐれも誤解しないで欲しい。

そうじゃなくて、自分の通読経験を通して、自分で書きながら考えた「軸足」となるような意見が先にあるからこそ、他者の意見を尊重できる。

AIも含めて「あなたは、そう考えるんですね」と素直に受け入れられるようになる。だから、軸足がないと、他人に手を差し伸べることもできなくなってしまうなあと思います。

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本や作家を、ちゃんと最初から最後まで通読してみるって本当に大事だなあと思います。

ここにきて僕が最近『旧約・新約聖書』をオーディオブックで改めてすべて聴いている理由なんかもここにある。

キリスト教信者でもない自分にとっては、正直、聖書はひどく退屈な場面も多いです。というか退屈が大半だったりもする。だが、それがいいと思っています。

世界で一番数多くの注釈書が書かれているのが、聖書という書物だと思います。ということは、AIが一番理解している書物もきっと『聖書』なわけですよね。

聖書の情報がネット上に溢れかえっているわけだから。AIに聞けばすべてがわかる。自分で読む必要がない本の筆頭かもしれない。

でも、だからこそ僕は今、聖書を通読しています。

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そして、この行為は、コスパもタイパもまったく良くない。99%の作業は無駄です。

でも、その大多数が無駄な作業が、自らの自信にもつながる。自分の軸足になる。そして、その軸足を支えにしながら、自分で考える、書くという行為につながっていく。

これは、言い換えれば、そのときに初めて、私の「引け目」がなくなるという意味でもあると思っています。

この「引け目」過去に何度もご紹介しているバガボンドの中に出てくる僕が大好きなセリフです。もう一度ここでご紹介しておきたい。

引け目。それ自体は心に生じた小さな波にすぎぬ。不安の方へ振れれば心は閉じる。見まいとして固く閉じた心の中では、不安はやすやすと恐怖にかわり敵意へと育つ。その逆も厄介だ。崇拝する、同化したがる。寄りかかって、執着のできあがり。目も心も開いているようで閉じているのと同じ。別れ道は    いつも心のうちにあるわな、真ん中がいちばんいい。


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つまり、恐怖と敵意、崇拝と同化はまったく同じ心的態度なわけですよね。

で、そうならないためには、「真ん中」を維持するためには、必ず自己の身体に通す、自らの身体の中で発酵させる時間が必要だ、というのが僕の主張です。

そのプロセスや時間自体を短縮してしまうことは表面的にはラクに感じるかもしれないけれど、タバコなんかと一緒で、百害あって一利なし。

一度ハマるとぬけられないし、それをやればやるほど、むしろ自らの「引け目」による心の揺れはドンドンと大きくなるばかり。

「その時間を短縮しようぜ」というのは「宗教を盲信しようぜ。あの教祖の言う通りに生きようぜ」というのと、何も変わらない。

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ということで、僕はこんな時代だからこそ書物をちゃんと最初から最後まで自ら通読(通聴)し、自分の手で書いて「情報化」をしてみる、ということが本当に大事になってきているなと思っています。

AIが持っていないのは、今のところ「身体」だけです。その身体からの総合的なフィードバックだけはAIはまだ、自らつくりだすことはできない。人間だけが持っている能力。

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だとすれば、古典や名著を通読し、身体が感じたことを「わかれ!」って頭に促しながら自分なりに「情報化」をして書いてみること。

そして、その学びを実践する「旅」に出て、他者と共に「共同体」を育むこと。

そのときに初めて、自分の「真ん中」が生まれてくるのだろうなあと。

今日の話は、伝わらない人には全く伝わらないだろうし、伝わる人にははっきりと伝わる話だと思います。どうにか伝わっていたら嬉しい。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。