以前も少しご紹介をした哲学者・苫野一徳さんと竹田青嗣さんの対談本『伝授! 哲学の極意: 本質から考えるとはどういうことか』という本が、とてもおもしろかったです。
今日はこの本を読み終えた感想を、自分なりに書いてみたいと思います。
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まず、この本を1冊目として読み始めたら、「一体何を言っているのかよくわからん」となってしまいそうなので、そこは注意が必要だと思います。
一方で、苫野一徳さんのVoicyを習慣的に聴いているひとにとっては、こんなにも順を追って丁寧にわかりやすく説明してくれる1冊はほかにはないなと、唸ってしまうはず。
まだの方は、ぜひ苫野一徳さんのVoicyをまずはイチから聴いてみて欲しいけれど、Voicyを聴いてきた方なら、ぜひとも一度手にとってみて欲しい本です。
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ただ、僕はこの本を読み終えてみて強く感じたのは、哲学における「誰もが了解可能な原理的な出発点からスタートすれば、一般意志が導ける」というのも、それはそれでひとつのフィクションと言うか、ロマンに過ぎないんだろうなあと思ってしまいました。
実際に、いま僕らが世界の様々な問題を通して見せつけられているのは「実際にはそうではなかった」という圧倒的な現実なわけですから。
もちろん、だからこそ、もう一度「自由の相互承認」というような誰もが納得できる原理に立ち返らないといけないんだ、という話は本当にその通りで、ぐうの音も出ないほどの正論です。
でもそうやって、「全員が考えれば、必ず原理まで到達できる」ことを前提としたうえでの議論というのは、現実を見れば見るほど、成り立たないんだろうなと思わされてしまいます。
実際の民主主義では、そんなことを考えられる人は、本当にごく少数でしかない。
それは、まるで経済学が「人間は全員が経済合理的に行動する」という仮定を置いて出発しているように、です。でも、実際にはほとんどの人間は経済合理的に動かずに、それゆえに行動経済学のような学問も生まれているわけですよね。
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このように、全員が同程度に理解しないと起こらないこと、それは思考の原理的にはありえても現実的ではあり得ない。
たとえば、世界の識字率が100%になって初めて起こることがあるとして、それは原理的にはあり得そうでも、やっぱり現実的にはほとんどあり得ない。
むしろ、そんなことが、本当にいざ達成されそうになったら、必ず自分たちで進んでその外側に行こうという風変わりな人たちも現れる。
それゆえに、原理的に突き詰めて、理想のあり方を見つけ出そうとする哲学の営みなんかも、それらも宗教と同様、一つのロマンに過ぎないんだろうなあと、原理的に徹底して突き詰めてくれている本だからこそ、なんだか余計に強く感じてしまいました。
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で、ここからは本の感想を飛び越えて、ここ5年ぐらい意識的に様々な哲学的議論や宗教的議論を自分なりに眺めてきて、いま思うのは、突き詰めれば以下のような話になるということ。
それは「ここまで考えてくれば、あなたはあなたの意志において、あなたの責任を引き受けられるでしょう?」と。
「ここまで徹底して考えて、それでも反証可能性がないことがわかってもらえれば、再び歩み出せるよね?」という話を常にしているなと思う。
デカルトの「我思う、ゆえに我あり」から始まる議論もそうだし、原始仏教なんかもまさにそう。
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「自分を生きる」と「他者と共に生きる」ということの根本は、自分の責任を引き受けて、自分の人生を生きるということでもあって、「これは自分の責任ではない」と逃げ回る私(たち)をどうやって、この実存的な自己として引き受けるのか。
それこそが成熟にもつながって、社会も正常に機能して回りだすという話を、多くの哲学者や宗教家がしているなあと思います。つまり、個人の幸福と、社会の幸福につながる。
そのためには、どうやって各人に納得してもらうのか、そんなゲームをやっているんだということに、やっと腹落ちして気づけたような気がします。
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で、これは余談なのですが、責任概念の話でいつも思い出すのは、國分功一郎さんの「中動態」の概念。
この概念が好きな人は本当に多いし、実際に対話会などでも話題に挙がることは多いけれど、正直、個人的にはまったくピンと来ていない概念でもあります。
この概念を持ち出されるたびに、何かを言っているようで、何も言っていないよなと僕なんかは思ってしまいます。(ごめんなさい)
でも、それを持ち出したい、気持ちはとてもよく理解できるんです。自己の(社会的な)責任の所在を曖昧にできるから。
そして、この概念の存在によって、実際に救われているひとたちが多くいる。それは大変素晴らしいことだと思います。
また、この考え方があるから、現代の責任概念を疑う契機にもなり得るし、それによって進む社会の議論もある。こちらも本当に素晴らしい話だと思う。
だから、そのときにわざわざ批判してもあまり意味がないとも思っていて、僕は決して口にしません。
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で、さらに余談ついでに石を投げても仕方ないという意味では、「ウェルビーイング」に対する批判なんかとも、とてもよく似ているなあと思います。
「この概念が一般化すると、個人の愚行権を侵害するから、よろしくない」みたいな議論も言いたいことはとてもよくわかるけれど、個人的には全然ピンとこない。
というか、ソーシャルグッドなことって基本的に全部そうですよね。そこには必ず一定の「欺瞞」が含まれる。でも、その欺瞞を暴いてもみても仕方なくて。
中動態の概念も「現代の責任概念はけしからん!」と思うから、その目的から逆算をして「中動態」みたいな一見すると意味がわからないような小難しい話になっていく。
基本的には、この順序なわけですよね。
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それを「目的当てはめ型思考」みたいな形でその欺瞞を暴いてみても仕方ないよなあと思うんです。それが間違っているって思わない。ソレもそうだよね、と思うだけ。
大事なことは「均衡点」なんだと感じます。
世間がウェルビーイングを追求するあまりに個人の愚行権が侵害されるという話も、それはそのとおりだし、何一つ間違っていない。
でも一方で、ウェルビーイングという考え方の登場によって救われる人々が一方でいる中で、その主張にどこまで正当性があるのかなと思う。
言い換えれば、その愚行権の行使というのは、再びブラックな職場やセルフネグレクトのような状態に陥る状態が存在する可能性があるなかでも、主張することなの…?と思う。
もちろん、誰も言わなければ、そのまま流されるという気持ちのもと書いているんだろうけれど、逆に言えば、その程度の批判でしかないということを読み手もちゃんと理解しないといけないんだろうなあと思います。
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さて、話を本筋に戻すと、だから本当に大事なことは、もっと個々人が自らの責任を自然と背負えるようになるためには、どうすればいいのかという話。
言い換えれば、世界や社会、会社や他者のせいにしないで、自分で自分の「責任」を引き受けて再び歩み出せるようになるためにはどうすればいいのか。
ここでふと思い出したのが、先日放送されていた100分de名著『ねじまき鳥クロニクル』の回で紹介されていた、「夢の中で、責任がはじまる。」という言葉です。
村上春樹さんはこの言葉を好んで用いていたそうなのですが、「夢の中で、責任がはじまる。」とはそれは自分の内側にある無意識や記憶、痛みに直面することを意味するんだろうなあと思います。
自らの深いところに降りていって、他者との不可避な関係性を引き受けること。
そして何より、物語を紡ぐことによって、その責任を引き受けようとする“作家としての覚悟”そのものでもあるのだろうなと思うのです。
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つまり、作家とは、現実を描く人ではなく「夢のような物語」を通じて、読者に“責任と向き合う機会”を届ける存在なのかもしれない。
夢の中でこそ、ひとは本当の意味で「自分の責任」を引き受けることができるわけだから。物語と一緒に、自らの深い井戸の底へと降りていくことができる。
そして、そこで獲得する自らの内側の深いところから湧き上がってくる「責任」の始まり、その一点が大事なのだと思うんですよね。
そして、それは本当に千差万別だと思います。「自由の相互承認」のような何か原理的な一点があるわけではない。
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ここまで降りたときに初めて、ひとは自らの責任と意志で自らを自然と引き受けることができる。「他責思考」から解き放たれる。
それが、「夢の中で、責任がはじまる。」の言葉の意味でもあると感じます。
実際、僕自身も、昨年1年間で、ありとあらゆる村上春樹さんの本を読んでみて、自分の責任概念がガラッと変わった感覚がありました。
自責すぎず、他責すぎず、自らの責任をほんとうの意味で歩み始められたような気がしています。
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で、これは、まさに先日書いた映画『君たちはどう生きるか』の問題にも、ダイレクトにつながる話だと思っています。
あの作品の中で、主人公である眞人は、地上では他者を騙したり、自ら自傷行為に出てみせたりと、完全にいじけている状態なわけですが、「嘘も方便」的にアオサギに導かれながら、異界へと降りていく。
そこで、大叔父と出会い、なんやかんやの冒険の果てに、最終的には自らの「悪意」を、自らの責任で引き受けて、現実に戻ってきて最出発しようとするわけです。
まさにあの映画は「夢の中(あちら側、現実とあの世のあわいの世界)で、眞人の責任がはじまった」話なわけですよね。
当然、それを見た観客も、見事に感化されて、自分事として考えてしまう。
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だからこそ、やっぱりファンタジーや物語というのは偉大だなと思うし、必ず行って帰って来ないといけないということを、改めて強く自覚します。
そしてそれは必ず、深いところまで降りていかないといけないこと。
改めて物語の持つ力は凄まじいなと感じるし、そんな物語こそが、多くの人々(文字がちゃんと読めて哲学的な議論ができる人だけではなく、それが理解できない人々も含む)も、同時に惹きつけるものになっているのは、本当にひとつの希望だなあと思います。
良くも悪くも、物語のほうが人々をまとめあげる力があるというのはきっと、こういうところにあるのでしょうね。
今日は、うまく伝えられたかどうかわからないし、昨日のブログに関連させると、身体の「わかれ!」という声に、まったく頭が上手に反応してくれず、そのズレがまだまだ多々ある状態ではあるけれど、今日のお話がいつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、何かしらの参考となっていたら幸いです。

2025/05/04 20:33