僕がよく聞かれる質問のひとつに、「今のコミュニティをドンドン大きくしていきたいとは思わないのですか?」という質問があります。
でもこの質問に対しては明確にNOであり、自分のコミュニティが広く遍くひろがっていくことよりも、Wasei Salonの価値観も参考にしてもらって、少しずつ重なりながらも、ちょっとずつズレている、コミュニティが広がっていくことのほうが望ましい形だなと思っています。
そのうえで、他のコミュニティとも健やかな関係性を保ちながら、お互いのコミュニティを尊重できるような関係性をつくっていきたい。
ではそれは、一体なぜなのか。
今日はそんなお話について、改めてこのブログの中で考えをまとめてみたいなと思います。
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まずこの点に関連し、コミュニティづくりにおいてよく語られることの一つに「すべての人を取りこぼさない」という理想があります。
具体的には、誰も排除せず、誰も孤立させないということ。
これは一見すると、なんて素晴らしい考え方だろうと思うかもしれないし、実際に僕もそう思っていた時期もありました。
でも、すべての人を完璧に包摂しようとすればするほど、結局は何も手につかなくなってしまうと、ふと気づいたんですよね。
もしくは、それはもはやボランティア活動とほとんど何も変わらなくなり、持続的な活動ができなくなってしまう。
それは限りなく行政に近いような立ち振舞いになって、何も尖ったことが言えなくなってしまいます。つまり、自分たちで自分たちの個性を消し去ることになってしまうわけです。
たとえば、Wasei Salonも毎月の会費を払えない人、インターネットに接続できない人、日本語のテキストコミュニケーションが苦手な人、実名顔出しをしたくない人などは、見事に排除していると言えるわけです。
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でも、そもそも、全員を迎え入れるホームなんて、つくれるわけがない。
そんなホームは、観念の世界では想像できるかもしれないけれど、実際には存在しないわけです。
何かを際立たせれば、必ずそこから溢れるひとたちは生まれてしまう。
だとしたらそうじゃなくて、それぞれのコミュニティにおいて包摂できるひとたちが、それぞれに存在していることのほうが大事だなと思うのです。
こっちのコミュニティでは排除してしまうひとたちも、あっちのコミュニティではしっかりと包摂されているというような。そんな状況を共に創り出すこと。
そして、多少なりとも重なる部分があるコミュニティ同士が、自分(たち)とは異なる形で、活動してくれていればいるほど良い。
大事なのは、そんな小さな円(コミュニティ)が少しずつ重なり合いながらも、ちょっとずつズレている状態で、そのうえでしっかりと繋がっていることだと思っています。
この「ズレ」こそが、多様な人々を包摂していく上で非常に大切なことだと感じるんですよね。
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でも、今の世の中は、批判ばかりが目につきます。
「このコミュニティは、このような人たちを排除している!」というような。そして、そのようなコミュニティ運営者は、差別主義者だと激しく非難する。
また、たとえ非難する側にそんな意図がなかったとしても、特定の団体をスケープゴートのように見立てて連帯する口実に使ってしまうことがある。
でもそうすると、逆にコミュニティ同士での連携できなくなってしまう。そして、分断は深まるばかり。
コミュニティごとの分断がより深まるから、自分たちのコミュニティで世界全体を包摂し、広く遍く広げていかなければならないというミッションになっていく。
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いわゆるな左翼思想が陥りがちな罠も、実はここにあると思うんですよね。
観念の世界の「完璧な包摂」を目指すあまり、批判と排除の論理に陥ってしまう。
そして、結果的にブルジョワジーは地位や権力や名声や富というわかりやすいものさしで連帯し、プロレタリアは各々に孤立してしまう。
社会主義の失敗はここにあると思う。昔からそれはずっと変わらないと思います。
だから「全国のプロレタリアよ、団結せよ!」だったはずなんですよね、本当は。
じゃあ、どうすれば真の意味で連帯することができるのか。
富裕層は、政治の流れ、経済の流れ、お金の流れで連帯することができるけれど、それ以外の方法において、ある程度同じ方向を向きつつも、緩やかに連帯するためには一体どうすればいいのかが問題となるわけです。
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僕が思うのは、お互いのコミュニティ同士でそれぞれの違いやズレを尊重し合うこと、だと思います。
そして、そのうえで、それぞれに包摂できるひとを素直に包摂していく。そして排除せざるを得ないひとたちがいた場合には、しっかりと代替案を提示できること。
それが巡り巡って最善策だと感じます。
そしてこのときには、そうやって行ったり来たりを繰り返せる「風通しの良さ」も大切になる。
僕自身もできるだけ囲い込みたくないですし、参加者本人が自分の意志で留まったり、少し離れてみたり、また戻って来たりできるコミュニティにしたいなあと思う。
その風通しの良さが結果的に、ゆるやかな連帯も生み出すと思うのですよね。
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ただ、こんなことは僕が考えるまえから、検討していたひとたちはたくさんいたはずで。
じゃあ、なぜこれまではそれが実現されてこなかったのか。
それについても、合わせてこの場で考えてみたい。
この点、様々な理由がそこにはあるとは思いつつ、一番大きな理由は、これまでは社会の仕組み的に、なかなかにそれが難しかったことがあげられると思います。
具体的には、コミュニティごとのシームレスな行き来が難しかった。
一番わかりやすいところは、村社会や企業の終身雇用みたいなもの。
だから結果的に、風通しの悪さ、空気の淀みを受け入れざるを得なかったのだと思うのです。
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でも、今は、みなさんもご存知の通り、それが大きく変化してきていると思うのです。
転職・副業は当たり前、リアルとネットの垣根もなくなり、リアルの生活においても二拠点居住や移住なんかも、もはや引っ越しと大差がない。
だとしたら、今こそ、そんな風通しの良い関係性を目指しても良いのではないでしょうか。
逆に言えば、風が吹いていなかった場所に、今まさに風が吹き始めてきた。
それが、まさにこのタイミングだと僕は捉えています。
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コミュニティも生き物ですし、人間も当然生き物。両者ともに、常に生成変化をしながら、蠢いている。
若い頃にはなかなか気付けなかったけれど、年齢を重ねれば重ねるほど、そのことを強く実感します。
先日配信されたポッドキャスト番組「なんでやってんねやろ?」の最新回の中でも、学生時代の親友や、ベンチャー創業期の仲間など「息がピッタリ合っていた」と思える人たちと、ライフスタイルが変わったり時間軸が変わったりして、少しずつお互いがわからなくなる寂しさや切なさについて深く語られていました。
それゆえに感じる「もののあわれ」のようなものも同時にとても丁寧に言葉にしてくれていて、それが本当にいいお話でした。
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昔なら、根性の別れ、もしくは、手紙ぐらい遅いスピードでのやり取りしか不可能だったからこそ、一度離れてしまうと、もう二度と戻ってこられないような社会の構造があったけれども、今は本当に何度だって行き来できる。
その風情のなさを、逆手に取りたいなと僕なんかは思うわけです。
そして、そんな社会状況に移り変わってきている今のタイミングこそ各コミュニティごとのズレのほうが価値を持つようにもなる。
それぞれに蠢いていて、その変化のスピード自体も早いということは、一切固定化されていないということでもあるのだから。
少し遠のいてしまう時期もあれば、また深く重なる時期も必ずやってくる。
そんな時代に大切なことは、関係性を断ち切らないこと。7年以上、Wasei Salonを継続してきて、それは本当に強く思います。
だとしたら、それぞれの違いを尊重して、そのうえでお互いに出入り自由な環境をつくりだしていくこと。頻繁にお互いのコミュニティを留学し合うようなイメージを持つことが大切なんだろうなあと。
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「自立とは依存先を増やすこと」それもそのとおりなのだけれど、僕は、そうやって、信頼できるたくさんの選択肢を獲得し、それを紹介できるようになることもまた、自立の一つの姿だと思います。
目の前に困っているひとが現れたとき、自分の専門分野以外の場合において、素直に信頼できるひとを紹介できるようになること。
この豊かさや幸福感というのは、自分のサービスですべてのひとを包摂できて、自分のところで囲い込んでしまうことなんかよりも、何倍も何十倍も大きいと思うのです。
実際、僕自身も、日本各地で活動する素晴らしい方々や場を自信を持って紹介する瞬間が、本当に嬉しいし誇らしいです。
たとえば、「都会の暮らしに違和感を感じて、島根県石見銀山にある群言堂さんを訪れてみるといいですよ」とか「環境に配慮した暮らしに興味があるなら、IKEUCHI ORGANICさんのイベントに参加してみるといいですよ」とか。
他にも鞆の浦の長田さんや、長野県のnagare・石川さんをご紹介できるタイミングの嬉しさといったら、本当にこちらが感謝したくなるほどの喜びがそこにはあるんですよね。
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当然、そうやって「あなたにご紹介したい」と自らが、もしくはWasei Salonが紹介されたときの喜びも非常に大きいです。
そして実際に、そのような紹介のときにはお互いにハズレがほとんどない。
なぜなら、ある程度は文化感が重なっているような相手(コミュニティ)から、そのズレの部分を尊重されて、ご紹介いただいているわけですからね。
最初から相性がいいのも当然のことだと思います。
またそうやって紹介されたときに、「このひとの紹介なら一肌脱ぎたい」と思えること自体も非常に豊かなことだなあと思います。
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今日語ってきたような関係性を自ら構築しようともせずに、世の中に対して「居場所がない」「あのコミュニティは◯◯を排除している」と批判ばかりしていても、それは天につばを吐いているようなもの。
また、人々はこれをコネと言うのだろうけれど、でもそのコネというのは、ネガティブな意味合いではなく、もっともっと商店街的なつながりだと思っています。
それぞれの場やコミュニティ同士が緩やかに連帯をして、全員で全員のことを包摂していこうという覚悟。
社会の構造や仕組み、そして何より世間の空気的にも、それが許されるようになってきた今みたいなタイミングだからこそ、とても大切な観点だと感じています。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。

2025/06/20 20:43