いわゆるな「シンギュラリティ」は起きなくても、AIの進化によって今の世界の構造、特に労働環境がガラッと変わってしまう可能性は、非常に高いとはよく語られる話です。

そして、そのような変化と、日本で南海トラフ巨大地震や、首都直下型地震が起きる蓋然性って、結構近しいものがあるんじゃないのかなと思っています。

どちらも、それがいつ到来するのかは定かではないけれど、近い将来必ずやってきてしまう。

そして間違いなく、自分(たち)の生活をガラッと変えてしまう。

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こうした未来を漠然と想像してみると、AIはもはや人災よりも「天災」に近いのかもしれないなあと思うようになりました。

AIも、新たな自然の摂理、そんな「デジタルネイチャー」の到来と捉えれば、文字通り天災ですからね。

では、そんなナチュラルとデジタルの天災が同時にやってきそうな蓋然性が非常に高い現代、僕らはどのようなマインドで今を生きれば良いのか。

今日はそんなことについて、このブログの中で丁寧に考えてみたいなと思います。

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この点、一番に考えてみたいとことは、僕たちはそれに備えて、今から何かを徹底的に準備をしておくべきなのだろうか、という問いだと思います。

一般的な結論としては、イエスだと思います。

でも、僕はここでまったく逆の提案をしたいなと思う。

それは、来たときに考えれば良い。なぜなら、そのときの自分と、今の自分は、全く異なる自分だから、です。

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どうしても僕らは、今の自分と、そのような世界が訪れたときの自分は、完全に同じ自分だとみなしてしまいがち。

それゆえに過度に恐れてしまい、対処できないことまで対処しようとしてしまうんですよね。

この点、養老孟司さんも最近、2038年までに起こる可能性が高い南海トラフ巨大地震の話を繰り返し執拗に言及しています。

最近は、あまりにもそれを繰り返し言及するから、メディアによっては避けられたり流されたりしてしまっているのも、よく見かけます。

でも、じゃあ養老さん御本人がそのことを過度に気にして、気に病んでいるのかと言えば、まったくそうではない。

むしろ、養老さんは「地震のための準備はしない」とハッキリと言い切っています。

逆に、その準備が完璧にできると思って誤解してしまっているのが、今の世の中だと。

人間は、平時と緊急時では考えることはまったく違う。「“想定外”の事態に対しては、事前に“想定”していたシステムなんて、ちっとも役に立たない。」そんなことも同時に繰り返し語ってくれているんですよね。

それを事前に予測できると思い込み「危機管理センター」のようなものをつくって、危機は人間の思い通りに管理できると思っていることが、人間の傲慢さであると。

この話を聴くたびに、僕は本当にそうだよなと思います。

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で、この話を受けて、何か大きな変化が起きそうな兆しがあるなかで、その時に過度に「取り越し苦労」をしないってこと、本当に大事だなと思っています。

最近読み終えた、三砂ちづるさんの本『自分と他人の許し方、あるいは愛し方』の中にも「取り越し苦労」の話が語られてあって、こちらも本当にその通りだなと思いながら読みました。

三砂さんは、本書の中で、若い女性たちが将来に対して過剰な不安を抱いている場合が多いと書いていました。

具体的には、学生さんたちが「一人でもこんなに大変なのに、誰かと結婚したり家族が増えたり子どもが生まれたりしたらどうしたらいいのかわかりません。わたしは一人でいたほうがいいのではないかと思います」と真剣に思い悩んでいると。

そんな女性たちに対して、三砂さんは「今のあなたは、これから変わっていく存在だ」とはっきりと伝えるそうです。

つまり、環境が変われば、自らのフェーズも変わり、それに伴って自分の中身も自然に変わっていくのだから、「今のままの自分で一生を生きる」と思い込むことこそが錯覚なのだと。

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このお話は、先日僕が参加した隣町珈琲のイベントでも似たような話を言及していて、かなり強い確信があって強いメッセージとして届けたいのだろうなと思います。

現代日本では、妊娠・出産・子育て・介護など、女性が担うとされる役割はすべて「ストレス」とされ、その楽しさや喜びの側面が見落とされてしまいがち。

本来なら、生殖や家庭に関わることは、人間にとって自然で創造的な営みであり、不安ではなく喜びや達成感と結びつくもののはずなのに、社会的な刷り込みや制度の歪みによって、女性たちが「自分が変わっていく力」を信じられなくなってしまっているのだと、三砂さんは書いていました。

だからこそ、「今はいいけど将来は大変よ」などというような大人たちから若者に対する呪いの言葉などは、本当に無駄なものなのだと喝破していて、若い学生さんたちには「取り越し苦労はするな」と教えているそうです。

これはなんだかとても共感するお話です。

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「なるようになる」

「なったもんはしょうがねえだろう」

そして、なったときになったときは、なったときの自分が考えるべきこと。

今の自分が、取り越し苦労をしてみても何の意味もない。そのときには違う世界であり、違う自分なんだから。

それよりも「いついかなるときも、他者に対して別け隔てなく親切である」とかのほうがよほど大事なことだと僕は思います。

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逆に言えば、取り越し苦労癖のあるひとたちは、いつだってそうやって取り越し苦労をしてきて、不安や恐れで胸をいっぱいにしながら、自分自身に強い「ストレス」を与え続けているわけですよね。

そして、そのストレスに耐えられないから、常にそれを誰かのせいにして怒ってもいて、それがまさに今の「不幸な私」を生んでしまっている。そのことにちゃんと気づきたいなと。

いつか到来する未来に対して良かれと思って過度に怯えて、「今の自分」なりに必死で準備をして、それでも不安や恐れは一切消えることなく、むしろ未知であるがゆえに、より恐れを感じてストレスで自分自身の精神を病ませてしまったり、他人に流されたりすることほど愚かなことはない。

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それは、もし仮にこれから戦争が起きても全く一緒だと思います。

戦争が起きている世界の自分が下す決断と、今の自分が下す決断はまったく別物なんだから。

今の自分が考えてみても、その時のことを考えてみても仕方がない。

今の自分からしたら「私は絶対に人を殺さない善良な人間だ」と信じて疑わないかもしれないけれど、その時がきたら、もしかしたらまったく違う自分になり、当たり前のように目の前の敵を殺しているかもしれない。

当然、人を殺すことが良い悪いという話をしたいわけではなく、親鸞の言葉にもあるように「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし。」ということをちゃんと自覚しておきたいよね、と思うのです。

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自分が思いこんでいる確固たる自分なんて、存在していない。

だとしたら、現代人がよく語りがちな「自分らしさ」みたいなものに執着することはなんて愚かなことなのか。

それは、今の自分の肩書や職業に対して執着することなんかとも、まったく一緒だと思います。

今の自分が考えられる未来像ですべてを準備できる、想定できると思うことのほうが完全に間違っている。

むしろ、それぞれがそれぞれの世間一般的に語られる「自分らしさ」みたいなものに固執した瞬間に、大震災やAI革命で世界がガラッと変化した瞬間、そのときに猛烈な椅子取りゲームが始まり、限られた席を争い、血みどろの闘争が生まれてしまう。

というか既に、世界単位ではそれがもう起きている。

個人単位で「俺は(私は)社長なんだから、医者なんだから」とか言いながら「これぐらいの高遇をしてもらわないと困る」みたいな人間がコミュニティ内にいることが一番番厄介ですし、邪魔くさいわけですよね。

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それもこれも、自分らしさ、みたいなポジティブに語られがちなワードに対して誤解をし、今の私が考える「私らしいメリット」を最大限享受しなければならない、という思い込みから端を発しているように僕には思います。

今の私こそが私なのだと信じて疑わない態度。でも、繰り返しますが、そんなわけがないんですよね。「自分らしさ」なんて、いくらでも変わり得るし、そもそも存在しない。

明治維新が起きた後にも、自分は武家の一族だと思い続けていたひとたちが、辿った末路にもとてもよく似ている状況だなと思います。

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本当はそうじゃなくて、そのときの自らの置かれた運命や宿命性に対し、「承けたもう精神」を発揮して、いついかなる場合においても、自らの積極性や自主性、能動性を持って立ち向かっていくことができる、その心的態度のほうがよほど大事だなと思う。

もし、人間がこだわるべき「自分らしさ」みたいなものがあるとすれば、そんな心的態度のほうだと思います。

そして、常に、目の前の人を大切にすること。

「お先にどうぞ」と譲り合えるように。相手の関心事に感心を寄せて、いついかなる場合においても、正直・親切に生きると決めることのほうが、とっても大事なことのように僕には思います。

そういう人々が集まっている空間やコミュニティ、もしくは社会や共同体のほうが結果的にレジリエンス的にも強くなる。

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世間一般的に語られているような大災害や世界大戦、そしてAIのシンギュラリティに対する目前に迫った人類の危機に対して、完全に真逆の意見だと思われたかもしれないですが、こんな時代だからこそ、いま本当に大事な観点だと思っています。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。