突然ですが、僕は、躬行実践という言葉が好きです。

過去に何度かご紹介したことが福澤諭吉の「慶應義塾の目的」という短い文章の中にも「之を口に言うのみにあらず、躬行実践、以て〜」という言葉が出てきます。


自分が高校生のころには、なぜこの短い文章の中に、福澤がわざわざこの言葉を入れているのか全然理解できていなかったけれど、今なら福澤がここにこだわった理由もよく分かる。

先日の哲学イベントなども受けて、行動の伴わない真理は、それがたとえどれだけの真理であっても、あまり意味はない。

学問的な価値はありつつも、をれを生活レベルでどうやって躬行実践していくのかということは、常々考えたいなと僕は思います。

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またこれは「実践こそがむずかしいんだ!」というメッセージでもあると思うのです。

だからこそ、日々何を実践するのかが、人間が生きるうえでも非常に大切になる。

そして、僕が常々心がけて生きていきたいなと思うのは、中村天風の「今日も一日、怒らず、恐れず、悲しまず、正直・親切・愉快に生きよ」という言葉です。

この6つの要素を日常的に実践することは、ほんとうにむずかしい。

ただ、親切だけは、今この瞬間から誰もがすぐに始められると思うんですよね。

そしてそんな親切というのは、レイモンド・チャンドラーが小説に書いた名言でもある「強くなければ生きてはいけない。しかし、優しくなければ生きていく資格がない」という話にも関連して、生きる資格にも直結することでもあるなと思います。

具体的には「お先にどうぞ」と、相手に先を譲れること。

だからこそ、親切の躬行実践が今とても大切だなと思うし、それを改めてブログの中でも宣言しておきたいなと思いました。

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この点、親切に関連して、自分の身の回りで最近あったことを、ここで少しご紹介したい。

最近の若い子って、どれだけムスッとしていても、わかりやすく親切には反応してくれるなと思っています。

先日も、K-POPのストリート系みたいな格好をしている無表情なクールな女の子に、ドア開けて「お先にどうぞ」と先に通してあげたら、わかりやすく顔色が変わって「ありがとうございます」と言われました。

昔なら、というか、僕達の世代のあの頃の年齢のころは、そのままムスッと通りすぎて「なんだよ、こっちが親切にしてやってんのに!」と思わされるタイプの子だったはずなのに、親切にした瞬間、その敬意に対して、良くも悪くも、見事に反応してくれる。

これは、とっても嬉しいようで、ちょっとだけさみしいなとも思ったんです。

「良いんだよ、若いときはムスッとしていても」とも同時に思って、コレって一体なんだろうなと考えました。

「若者が親切に反応してくれるなら、それは良いことじゃないか。何を悲観的になる必要があるんだ」と思うひとが大半だと思います。

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でも、若者が親切に過敏に反応させる世の中は、僕はどこか間違っていると思います。

それって言うのは、コスパ・タイパ思考、等価交換や資本主義の成れの果てに感じています。

言い換えると、あまりにも、この10年、ギブアンドテイクの話が語られすぎた。

だから、親切で何かを受け取ったら、それはすぐに返さないといけないと思っている、そうじゃないと怒られる、自己評価が下がると若者を中心に社会の全員が思っている。

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そういえば、以前僕がかなり衝撃だったのは「他人の親切で何か物をいただいたときに、それは、自分の財布から勝手にお金を抜き取られたような気分になる」という話をしていたひとがいたこと。

「お金を出して自分で買えるものは、自分で買いたい。それを相手から一方的に親切心でもらってしまうと、何か相手に貸しをつくったような気持ちになる」と。

つまり、返報性の法則を押し付けられたくない。貸しをつくりたくない。という意図だったようです。

でもそれはどう考えても、おかしいと僕は思う。

そんなつもりはない、見返りを求めない親切だって、この世にはたくさん存在する。というか親切というのはそういうものだったはずです、もともとは。

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でも、今は、あまりにもギブアンドテイクの話が語られてしまったせいで、親切を受け取れば受け取るほど、自分の財布から勝手に抜き取られている、何か等価交換における負債を勝手につくられていると思ってしまう。

そりゃあ、そんな世の中には親切が巡るわけがないなと思います。

本来、親切というのは社会やコミュニティの中で循環するものであり、本人が見返りを求めるものではないはずなのに、すべてを取引として捉えてしまう思考パターンが定着してしまっていること、それが若者が過度に親切心に反応してしまう原因さえもつくっているように思います。

すぐに「ありがとうございます」と言い換えして、相殺しなければいけないと思ってしまうのも当然なんです。

その言葉というのは感謝ではなく、すぐにでも返済して相殺しないといけないという無意識の強迫観念。

残念ながら、今の社会の分断や価値観の多様性というのは、そこまで進んでしまっているように僕には見えます。

でも本来、年長者からの親切心を一方的な贈与として若者が受け取るのは当然で、そこで感謝の言葉が少し足りなくても、それぐらいでちょうどいいはずだったんですよね。

彼ら彼女らも、大人になればその若かりし頃の非礼に気が付き「こんなにも受け取ってしまっていた」と自覚をし、自分が今度は若い人たちに「親切に接しよう」と思うはずなんですから。

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だとすれば、もう一度、本当の意味でちゃんと親切が巡る空間をつくりたい。

お互いに誤解しないように、です。

ハックのためとか、先に自分からギブすればテイクができるとか、そういうくだらない小手先の処世術は一切抜きにした、本当の意味での親切が巡る空間。

「これは、何か下心があるような親切ではなく、ただただあなたに傷ついて欲しくない、あなたには、あなたの唯一無二の価値がある」という意味における無償の親切が巡る空間。

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で、僕は、昨今のAIの登場、そのドラスティックな変化も、この親切の総量を少しでも増やすために使いたいなと思う。

言い換えると、自らが他者に親切にするそこにフルベッドするためにAIを使いたい。

AIが出てきて、僕らはこれまで以上にできることが増えました。

でも今は、何のためにAIを使うのか、それがはっきりしていないひとたちがあまりに多すぎる。

とはいえ、何も使わないともったいない気もする。せっかくのチャンスをムダにして、機会損失をしているような気分になる。

そして、現代人は、そのような機会損失のボディブローがいちばん耐えられない。

他人が何かを享受しているように見えて、生活や人生がまるっきり変わっているように見えてしまうと、自分も何か恩恵を受けようとしないと、ヤバいんじゃないかと思い始める。

そして、お金なんていくらあっても困らないし、生産性なんていくら向上しても、つぶしが効くんだからと、欲してもいないものをバンバンとつくるようになる。

そして、コンテンツは無限に増えていくし、生産性も無限に高まっていく。でも結果として、誰も幸せにはならない。

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そんな時代には、自分自身で「私はこのためにAIを使う」ということを考えないと、どこまでも自分には必要がない「他者の欲望」を欲望させられてしまう。

「本当はこの世界に何を増やしたかったんだっけ?この世界に何を増やすために、私は生まれてきて、次世代に一体何を残していきたいんだっけ?」と今こそ真剣に考えないといけないと僕は思う。

そう考えたときに、僕は、世界に親切を増やすために、AIを使いたい。

少なくとも、自分が関わる世間やコミュニティにおいて、少しでも親切が巡るようにしていきたい。現代社会にはびこるギスギスを、少しでも減らすために活用したいなと思います。

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そして、これは決してむずかしい話じゃないと思っています。

AIを使うことで効率化されて増えた自分の時間を使って、素直に誰かに手を差し伸べればいいだけですから。

空いた時間で、相手の関心事に少しでも感心を持って、そのうえで、文字通り相手の「荷物」を持ってあげればいい。

そして、自分が急がなくても済むようにもなるのだから「お先にどうぞ」と、先に道を譲ればいい。

そうやって、先に道を譲れることのほうが、よっぽど自分の「心の安寧」も得られるし、世の中の幸福の総量は結果的に増えていくと思います。

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最後にまとめると、テクノロジーの進化、AIを使えるようになって授かった時間は、親切の躬行実践のために使いたい。

あとは、こうやってブログに書いてしまう宣言効果も狙っています。

親切の躬行実践を、自ら宣言して先にやっちゃう。そして「共にやろうよ!きっと楽しよ!」と誘い合っていくことが大事なんだろうなあと。

逆に、相手から親切を受け取ると、自分の財布からお金を抜き取られている気分になるとか、自分から親切を先に振りまくと何かを搾取されているような気分になると信じる方は、どうぞこの場から、もしくは僕のまわりから立ち去ってくださいとも思います。

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親切心があふれる、そんな真の意味での紳士・淑女が集まる空間をもう一度つくりたい。

男女関係なく、お互いがお互いに対して親切心をもって関われるように。

だって、きっといつの時代も、先人たちはそれをつくりたかったはずだから。誰の尊厳も傷つかないという空間を。

相手が自己認識をどう抱いていようとも、こちらから相手の尊厳を言祝ぐ空間、決して等価交換を求めているわけではないということを、これからもひたすらに繰り返し言及していきたいなと思います。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考と成っていたら幸いです。