昨日こんなツイートをしてみました。

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このような勘違いをしてしまっているひとって、意外とかなり多いと思います。

もちろん、僕も近年までそうでした。

だからこそひとは、何か他者から承認されやすいわかりやすい「結果」を追い求めて、今の自分以外の「何者」かになろうとして、必死で努力してしまうのでしょうね。

社会的に成功したいとか大金持ちになりたいとか、そういう表面的な欲求だけではなく、もっともっと根底にある「私の話を他者に聞いて欲しい」という理由からくる根源的な欲求を追い求める一心で。

それは、子どもの「ねえねえ、聞いて!」と周囲に私の話を聞いて欲しいと願う健気な欲求とまったく同類のものです。

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でも、実際には、そのように振る舞えば振る舞うほど、周囲は自分の話を聞いてくれなくなる。

いや、正確に言うと、たしかに多くのひとは「結果」を出したひとの話を聞くに値すると誤解をしてしまっているから、結果を出しているひとの意見は耳が傾けられやすくなることは間違いありません。

だから、注目(アテンション)自体は集まります。

でも、それはあなたである必要がない。いつでも交換可能な存在として、あなたはそこに存在してしまうわけです。

たとえば、フォロワー数が多いとか、広告でいっぱい稼いでいるとか言いながら、アテンションを集めているひとは、TwitterのなかにもYou Tubeのなかにもたくさんいます。

でも、そのひとたちがアテンションを集め続けているのは、そのひとの社会的な地位を同様に欲しているひとが後をたたないからです。

つまり、そのひとの話が聞きたいのではなく、そのひとの社会的な地位や環境を手に入れるための手段だけが知りたくて、耳を傾けられてしまっているわけです。

客観的に見ると、聴衆が自分の話を聞いてくれているから満足できそうだけれども、そこには雲泥の差がある。

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喩えるなら、フェラーリに乗っているということを自ら喧伝して、フェラーリに乗りたいと願っているひとたちをかき集めて、フェラーリを手に入れる方法をひたすら語っているようなものです。

集まってきている人たちは、誰もその乗っている「本人」にはまったく興味なんか持っていない。

話している本人からすると、それが一番辛いんです。

私の周囲にあるものすべてに目を向けられているのに、この私にだけに目を向けられていないのですからね。

私が素っ裸にされた瞬間に、全員が自分のもとから離れていくことを誰よりも自分が一番よくわかっている状況ほど辛いことはないと思います。

なぜなら、今ここに立っている私は「余人を持っていくらでも変えられてしまう」わけですから。

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出版社なんかも、アテンションエコノミーの本質はここに存在しているとわかっているからこそ、雨後の筍のように出版され続けているインフルエンサー系の出版物なんかも、誰が書いたかさえ名前がわからないようにつくられてしまっている。

それよりも「フェラーリ」のような記号が全面に押し出されているようなものになってしまっています。

現代においては、それが各種SNSの合計フォロワー数や、稼いだ金額、「体験」の華やかさに移ってしまっているだけといういことなのだと思います。

読み手(購入者)にとっては「そんな記号を手に入れられた人間であれば、誰の話でもいい」となってしまっているわけですから。

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さて、ここまで書いてきたように、輝かしい「結果」につられて、ひとはひとの話を聞くというのは一見すると関連性がありそうで、実際はそれが原因じゃないのだと思います。

言い換えれば、「結果」でアテンションを集めても、そのひと自身の話に真摯に耳が傾けられているわけではない。

もっともっと別の事柄で、僕らはそのひと自身の話を、真剣に聞いているはずなんです。

その証拠に、たとえば僕らは田舎で手仕事をしてきたおばあちゃんや、なんの変哲もない一般人でも戦争や震災体験者の言葉には、ついつい耳を傾けたくなってしまう迫力を感じ取るはずなんです。

それは、冒頭のツイートにも書いたように、彼らが本人の実体験から立ち現れてくる仮説を、自分自身の身体性を頼りにしながら、丁寧に腹落ちする言葉選びをちゃんとしてきてくれたからですよね。

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つまり、大事なのは、輝かしい結果でも雄弁なプレゼン力でもなく、自らの経験から立ち現れてくる身体性と正直に向き合ったか否かのほう。

それは、本当にどんな些細なことであってもいい。

ほかでもない、この私だけの人生とちゃんと真正面から向き合って、そこから立ち現れてくる私の身体感覚を頼りに言葉を紡いでいれば、それは絶対に価値のあるものになるなずなのです。

でも多くのひとは、私だけのその経験と向き合うことだけを避けて、逃げてしまう。

そして社会が認める客観的な輝かしい「結果」ばかりを追い求める。

でも、それと向き合う身体性を伴った言葉こそ、必要なひとに届く私の言葉になるんですよね。

どんな些細な話でも、ちゃんとその過程を経た言葉であれば、その話をおもしろがってくれるひとたちというのは必ず現れます。

そんな目の前に現れたひとたちと、しっかりとコミュニケーションをとりながら丁寧に対話を続けていれば、きっと本当の意味での「豊かさ」というのは手に入ると思います。

具体的に言えば、苦手なひとと付き合わなくても済むようになる。

つまり、もう戦わなくともよくなりますし、毎日戦場に向かう必要もなくなります。
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にもかかわらず、多くのひとは、他人から憧れられる「結果」こそが全てだと思っているから、今日も他人の言葉、他人の経験に憧れて、他人の業績を手に入れようとして、戦場に向かう人が後をたたない。

でも、それが一番の遠回りなんだと思います。

僕自身、過去にたくさんのひとに直接インタビューをしてきて、「その違いとは何なのか」ということをずっとずっと考え続けてきたから、この見立てはきっと間違っていないと思います。

強いて言えば、これが僕の経験から立ち現れてきた言葉のひとつでもある。

逆に言うと、このことをちゃんと理解し腹落ちすると、目の前のひとの語っていることやその語り口ですぐに、目の前のひとが本物か否かがすぐに分かってしまうという恐ろしさもある。

自分の身体性を完全に無視して、他人の言葉、他人の経験、他人の権威を借りて語っている場合は往々にしてそれは偽物であり、どれだけ輝かしい成功を収めていたとしても、美しい言葉を並べていたとしても、ほとんど聞くには値しない。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。