生き方の自由の問題について、最近よく考えます。

ひとが「みんなが自由で生きられる世界」みたいな漠然としたユートピアを想像するとき、十人十色のような多様性が思う存分に発揮された世界を想像すると思うのですが、果たして本当にそうなのでしょうか。

それが最近の僕の問いです。

この点、エーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」やサルトルの「人間は自由の刑に処せられている」という言葉の意味を持ち出すまでもなく、何かしらの指針がないと、大半のひとはすぐに不安になってしまうというのは間違いありません。

だから「十人十色」というのはある種の幻想で、それほど現実味があるような話ではないのだろうなあと。

そこで、想定されているような理想的な人間、具体的には自らの責任で、自らの事柄を決められる胆力を持ち合わせている人間というのは、圧倒的に少数派。

そのようなひとが社会の大半を占めている前提で考えるのは、どう考えても間違っている。

これは決して皮肉でもなんでもなく、それぞれが全く異なるライフステージを生きているのだから当然のことだと思います。

「自由」について学んだあとのひともいれば、学ぶまえのひともいるし、そこには螺旋階段のようになっていて「◯周まわって、またもとの場所に戻ってきた」という場合だってあるかと思います。

だからこそ、本来の目指すべき先は、8人が大体同じ色で、2人が全然違う色。それでも、社会がちゃんとその2人のことを無視するってことが大事なのではないのかなと。

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それは例えば、現代における「ファッション」を取り巻く状況を思い出して見てもられば、非常にわかりやすいかと思います。

現代は、どんな派手な格好をしていても、他人のファッションにはいちいち口を出さなくなりましたよね。

男の子がメイクをしていても、多くのひとは我関せずを貫くはずです。

でも、昔はそうじゃなかった。

僕が子供のころは、年配の方々が当たり前のように「みっともない」という言葉を印籠のように振りかざして、他人の格好に口を出し、みんなと同じような格好をしろと同調圧力をかけてきました。

学校のブラック校則なんかも、現代に残るそんな一部分なのかもしれません。

でも今の社会は、もうそうじゃないですよね。だからこそ、まずは「自由な生き方」を目指す先というのは、現代のファッションのような状況なのだと思います。

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自由を希求するひとは、十人いたら十人全員がバラバラの格好をしている世界を望むのだけれど、装いの自由度が高過ぎるのはそれはそれで不安になるし、大抵のひとは指針が必要なのです。

洋服においてはそれがコンサバティブで、ユニクロの世界なんだと思います。

生き方もこれと全く同じ。

十人十色と、十人一色の意見、その両極端がぶつかるから議論がややこしくなる。

本当の落とし所は「十人三色」ぐらいで、八人は一色で、あとの二人がバラバラの色であって、それをお互いに干渉しない、無視を貫くことがリアルな落とし所なのではないでしょうか。

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でも、なかなかそうはならないのは、自由を求めるひとも、それはそれで不安だからなんですよね。

「私だけが目立つじゃねーか!だからみんなもっと自由になれよ!」と。全員がバラバラの色だったら私が多少変な色を選んでいても、決して浮きませんからね。その気持ちはよくわかる。

全生徒が黒と赤のランドセルで統一されている中で、自分だけ水色なんかを選んでいたら圧倒的に浮くのと同じこと。

ここが意外と盲点なんじゃないのかなと。

でも、真に自由を求めるひとというのは、ひとりだけで目立てばいいと思います。

自由を求めるとはその視線に晒されることなんだから、大いに目立てよと、僕は思います。

それが嫌なら、自由なんか最初から求めるな、と。

日本に観光で訪れる欧米人が当たり前のようにそうしているように、日本人がみんな横並びでコートやダウンを着ていようとも、自分が暑いと思ったらTシャツ短パンにビーサンを貫けるかどうか。

周囲も、それをジロジロと奇異な目で見ないこと。それが真の自由な社会だと思います。

それができない日本人の私、みんなにも「私と似たようなTシャツ短パンのラフな格好」を求めてしまうのは、自由を希求する姿でもなんでもなく、また別の同調圧力でしかない。

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でも、自分が自由を求めているようで、また別の同調圧力を強要していることに気づかないから声高に叫ぶひとが、あとを絶たないのでしょう。

たとえば最近、学校や地元、村社会に対する炎上案件が増加傾向に感じますが、これは、日本人は学校や地元、村社会に対しての恨みや呪い、憎悪の感情が強すぎて負のパワーがすぐに増幅するから、炎上していくのだと思います。

過去に、自分を苦しめた人々を叩けるチャンスがあれば、彼らはいくらでも叩く。

そのような「自由」を希求する先導役をつとめると、驚くほど人々の熱狂を操作できるから、病みつきになる人は多いけど、それは完全に悪魔との契約だと思います。

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この点、最初はみんな親の香水をこっそりと盗むように、おっかなびっくり半プッシュぐらいから始まるんです。

でも、ソレを振り撒けば振り撒くほど、周囲に熱狂が湧き起こることに気づいてしまう。そうするともう止まらない。

最終的には良識ある人はみな「香りが強過ぎる」と離れていき、敬遠するようになる。そして周囲に残るのは、恨みや呪いが強すぎて、嗅覚がぶっ壊れたケバケバしい人たちだけとなってしまう。

しかも、厄介なことは、このような自由を求める姿というのは、一瞬の感動を生んでしまうんですよね。

強い呪いから生まれる「絶対に許さない!私たちの自由を追い求めよう!」という声高な宣言は「よく言った!私たちは絶対に間違っていない!」となり、群衆は涙を流し、人々が団結する方向へと向かわせる。

ここに一番強い熱狂が生まれるわけです。

でもやっぱりそれは長期的に見ると決して良い結果は産まないと思います。

本当必要なのは、許しと祝福のほう。

他者の自由を希求する姿をただただ黙って応援する、支援する姿のほうが、結果的には本当に望む自由が世界のなかに立ち現れてきてくれるはずです。

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ただし、これは完全に宗教の世界になってしまうんですよね。

「なぜ、あなたではなく、この私が譲るのか」それは宗教しか答えを出してくれない。

ロジックでは決して導かれる答えではないのです。

逆にいえば、宗教が衰退したからこそ、今のようなギスギスした流れが世間の中に蔓延しているとも言えるのかもしれません。「私だけが損をさせられているのだ」と。

だから、せめて僕は、今日書いてきたような構造理解、具体的には「なぜそうなるのか」という哲学的な思考が今とても大事だなあと思います。

そして、その構造に安易に流されない人里離れた場所で、小さなコミュニティをつくり出し、その中で小さな「自由」を実現し、淡々とそれを支援しながら育てていく。

そして気がつけば、その自由の在り方を多くのひとが参考にしたくなるように。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、何かしらの考えるきっかけとなっていたら幸いです。