先日、おのじさんと雑談している中で、ふと話題になったことなのですが、僕は自分にとって、とてもありがたい提案を受けても、それによってメリットを被るのが自分だけだったら、別の提案を自らすることが多いんだということ気づきました。
この気付きを与えてくれたおのじさんには、本当に感謝しています。
あまりにも過度に謙虚過ぎることは良くないとは思いつつも、自分以外のひとに、そのメリットや恩恵を分け与えることができない場合であれば、どれだけ自分にとってありがたい提案であっても、僕は受け入れない。
それは一体なぜなのか。
今日はそんなお話を、このブログの中にも書き残しておきたいなあと思います。
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まず、このような甘い誘惑、自分のみが得をするような内容って、淡々と何かしらを継続していれば、自然と降ってくることって、意外とよくあることだよなあと思います。
でも、そこで、その恩恵を素直に受け取ってしまったら、逆に足元をすくわれることって多いなと僕は思っていて。
むしろ、そんなときこそ、自分の取り分を一番最小限にして、他者と分け合う、もしくは他者と共有するという視点が大事だなあと思います。
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そして、そうやって常に他者に提供しようとしてきたからこそ、今の自分がこの場に存在し続けられているという状態って、間違いなくあると思うのですよね。
で、だとしたら、今この場において、現在のように存在していられるという時点で、既に多大なる恩恵を受けているとも思うんですよね。
それ以上の一体何を望むのか、と僕なんかは思ってしまいます。
これは綺麗事でもなんでもなく、本当に文字通り”ありがたい”ことだなと思うんです。
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もちろん、何かを日々努力しているのだから、いかに自分がおいしいところを受け取ろうとするかを考えることは、当然のことだと思います。
でも、だからこそ、どれだけ自分から率先して、そんな美味しい部分を他者に差し出せるか否かが問われているし、考える価値があるとも思っている。
そして、これがなんだか童話の「金の斧、銀の斧」みたいな話だなあと思ったんですよね。
「自分が落としたものは何か」それを正直に答えて、それ以上の甘い誘惑を丁寧に断ること。
僕は、仕事や「働く」に限らず、人生においてずっとこのことが自分に問われ続けているような気がしています。
言い換えると、人生というのは、このような甘い選択肢を提示されたときに、いかに正直に断るのかゲームみたいなもんだと思っています。
だからこそ、このような童話にまで落とし込まれていて、長く語り継がれている物語にもなっているのだろうなあと。
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もちろん、ここでくれぐれも気をつけたいことは、提案してくれた相手の好意を無碍にしてしまうのも、それはそれで違うということ。
相手の気持ちだけは、素直に受け取るというのは、とても大切なことだと感じています。
どれだけありがたい提案なのかということを率直に伝えつつ、その恩義は一生忘れないということも、本当に大事なことだと考えています。
そのうえで、身に余るものは受け取らない。もしそのようなものが享受できる機会があったら、積極的に他者と分け合うという選択肢を選び取る。
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何かしらの努力を積み重ねていれば、金の斧と銀の斧を提案してくれる女神というのは、必ず現れると思っています。それっていうのは、何も不思議なことじゃない。
たぶん、このブログを読んでくださっているみなさんも、丁寧に自分の過去を思い返してもらえれば、「あっ、あのときに私も出会っていた」と思い出すような機会は、山ほどあると思います。
そのときに、焦らない勇気、早急に摘み取らないことって、本当に大事だなあと思うのです。
別の文脈において「チャンスの女神は前髪しかない」というのも一方で事実ではあるのだけれども、それは「早く刈り取れ」という意味では決してない。
むしろ、この正直な決断を、いかに早く即決できるか、ということなんだと思います。自らの下心の誘惑に負けずに、です。
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現代においては、今日語ってきたような謙虚さって、ともすればとても嫌われがちな価値観だと思います。
なぜなら、正当な報酬をもらうことは、働く側、労働者側の正当な権利だから。
「チャンスを掴め」「自分の価値を最大化しろ」という声が溢れる中において、そんな謙虚さを保つことは、ある種の逆張りのようにも思えるかもしれません。それは当然で、実際にその通りなんです。その判断は何一つ間違っていない。
でも、その報酬を他者と分かち合うこと、過去の努力の対価以上のものを受け取らないこと。それこそがいちばん自分にとって中長期的な目線で見れば、持続可能な「豊かさ」を自らに与え続けてくれると思うんですよね。
そうすることが、結果的にいちばん見返りも多い。つまり長い人生全体で見れば一番「欲張りな選択肢」になり得ると思うのです。
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「金の斧、銀の斧」の童話においては、自分の落とした斧を正直に答えることによって、その瞬間に、自分の斧も含めて「金・銀・鉄」すべての斧が手に入ることになっているけれど、残念ながら、現実の世の中はそうじゃない。
これは童話において、わかりやすい教訓を与えるためのレトリックに過ぎません。
ただし、中長期の目線で眺めると、それらをすべて手に入るようにもできている。
ここの実感値のズレを、現実世界の時間と空間に適合させて認識していくことが、とても大事なことだなあと思います。
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最近だと、IKEUCHI ORGANICさんのオープンハウスの話なんかもまさにそう。
利益度外視のオープンハウスの開催は、自己犠牲でもなんでもない。最終的な得られる果実は、そのほうが倍増するということなんだと思います。
中長期の習慣としての積立の効果、そこに発生する複利の効果を正しく認識し、あとは、その目線を共に働く人々、それを社内外問わず、どれだけ多くのひとたちとその目線を揃えていけるのか、ということなのだと思います。
もちろん、僕自身が今こうやってブログを通して書いて伝えようとしているのも「このような価値観を大事にしたいよね!」とメンバーのみなさんと共有したいがゆえに、一生懸命に書いているわけです。
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そうすれば、より一層精神的な満足度は高まり、感じられる「豊かさ」もひとりでその旨味を享受するものとは比べ物にならないものに、化けてくれるから。
だからこそ人間関係を大切にしながら、いかに周囲のほうを立てていくか。日々の感謝を言葉やカタチで示していくかが大事だなあと。
お金やモノ、知識や情報の相対的価値がドンドンと日々低下していき、信頼や体験の重要性が増していく世の中で、過度に欲しがらないことは本当に大切なことだなあと思う。
特にこれからの時代は「金余りの時代」でもあり、従来以上に思わぬ何かが手に入るチャンスは誰にでも訪れてくるわけですから。
それは、従来の価値観であれば、ありえないぐらいの僥倖。でも、そこではしゃいでしまうことが一番の落とし穴。
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そんなときこそ、自分が本当に落としたものだけを、淡々と拾っていくというスタンスを常に意識をしておくこと。
それは、単純に言い換えれば「足るを知る」ということでもあるし、目の前に提示されているものの「価値」をちゃんと理解する必要があるということでもある。
僕が大好きな稲盛和夫さんの言葉で「謙虚にして驕らず、さらに努力を。現在は過去の努力の結果、将来は今後の努力で」というものがあるけれど、本当にそのとおりだなあと思います。
過去の努力の中で生まれた果実、その10分の1でも享受できれば、それだけで御の字だと肝に銘じること。
ましてや、将来の果実を、いま現在の自分が受け取るに値する存在なんだと誤解しない、過信しないことが、本当に大事だなあと思います。
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繰り返しになりますが、それらを先送りすればするほど、結果的に一番本質的な豊かさを享受することができる、僕はそう信じています。
これからも僕は、身に余る光栄はありがたく気持ちだけを受け取りつつ、しっかりと断るか、周囲と丁寧に分かち合って共に享受をするという選択を続けていきたいと思っています。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。
2024/10/29 21:02