行動が先か、意識が先か。

これは本当によく議論されるような話です。

そして最近では、脳が意識する前に行動が先にあるという話も、科学的な見地から頻繁に語られるようになりました。

NHKの「ヒューマニエンス」のような番組でも当たり前に取り上げられるようなレベル感でこの話が浸透しつつあるようになってきたなと思います。

とはいえ、僕はやっぱり意識のほうが先にあると思って生きてきました。

人間における一般的な認知の仕組みに任せてしまうと、きっとそうなってしまうのでしょう。

そうじゃないと今の社会の中におけるルール、特に法律における自由意志や、責任の主体を考えるうえで非常に不都合なことも起きてしまうから。

このあたりのパラダイムを社会的に変更するためには、もう少し時間が必要なのだと思います。

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でもきっと、僕らが意識のようなものとして捉えているのは、経験からの反省でしかないはずで。

つまり、経験→反省する、その繰り返しによって、ドンドン意識のようなものが発達しているだけなのでしょう。

たぶん、順序としては、きっとこれが嘘偽らざる真実なんだろうなあと思います。

この点、最近繰り返しご紹介してきた『実験の民主主義』を書いた宇野重規さんのまた別の書籍『民主主義のつくり方』    の中に出てくるプラグマティズムの話が、今日の内容にも関連して非常にわかりやすかったので、ここでも少しご紹介してみたいと思います。

生まれたばかりの赤ん坊にとって、世界とは混沌であろう。しかしながら、やがて赤ん坊は身体を動かすことで世界に触れていく。身の回りの出来事のうちにパターンを読みとり、その意味を知るようにもなる。さらに赤ん坊は言葉を学習する以前から、他の赤ん坊との相互行為を始めている。言語なしでも、人間は経験を重ねていくのである。     赤ん坊に自意識が芽生えるのは、その先の話である。そうだとすれば、経験こそが、「私」の意識に先立つことになる。逆にいえば、経験を「私」に閉じ込めるわけにはいかない。このように考えたプラグマティストたちは、デカルト以来の原子論的な世界観を批判した。彼らにとって、根源的なのはあくまで経験であった。


この赤ちゃんの具体例は非常にわかりやすい話かと思います。誰もがきっと、実感できるところなのではないでしょうか。

だからこそ、今日のタイトルにもあるように、経験を「私」の意識の中に閉じ込めてはいけないなと強く思うのです。

僕らは意識以上のことを、「経験」によって、本来は体験しているわけですから。

だとすれば、経験から立ちあらわれてくる意識を超える作用というものが間違いなくそこには存在するんだと思います。

そして「経験しないとわからない」という手垢付きまくりの言葉も、ある意味では当然のことでもある。

そしてここがまさに、AIにもまだ不可能なところでもあるかと思います。(身体性を持たないから)

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ただ、ここで厄介なことは、意識というのはそのような実践に抵抗して、必ず「大きな物語」をつくるということだと思っています。

ここが本当に大問題というか、意識の非常に厄介なところなんだろうなあと。

具体的には、これが神話や宗教、フィクションや物語を作り出そうとしたきっかけでもあると思うんですよね。

物語を共有することによって、後発だった意識が、経験や行動よりも優位に立てるわけですから。

そうすると、そこに予測可能性だって生むことができてしまう。それが次第に、法律のようなものもつくりだし、後発だった意識が、経験自体を制御できるんだと人間自身も錯覚することにつながっていく。

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先日ご紹介した養老孟司さんの「リアリティやリアルの翻訳は本来むずかしくて、それは人間の意識が生み出す『真善美』である」という話にも直接つながってくる気がします。

この「大きな物語」の現実変性能力というものが、あまりにも強すぎる。

そうやって、「大きな物語」として真善美を生み出すと、どうしてもそちらの物語に合わせて行ってしまうのが、人間ということなのでしょうね。

で、最近よく思うのは、人間は人間である以上、この「大きな物語」から逃れられない、決して物語をつくることを避けられないのではないかということです。

この点、ポストモダニズムの話なんかが、きっととても参考になるのかなと。

以前もご紹介したことのある内田樹さんの『街場の米中論』という本に非常にわかり易く解説している部分があったので、ここで少し引用してみたいと思います。


ポストモダニズムはこの「大きな物語」の無効を宣言しました。それは西欧の「自民族中心主義」的な思考上の奇習に過ぎない、と。あなた方はまず「物語」を作り、それにあてはまるように現実を眺めているのである。あなた方はみな「民族誌的偏見の檻」のうちに幽閉されていて、そこからしか現実を見ることができないのである、と。

この「自分が見ているものの真正性を懐疑せよ」というポストモダニズムの要求は正しいものだったと思います。まったく、その通りなんですから。でも、このポストモダニズムの要求はいささか厳し過ぎて、人間の忍耐力の限度を超えるものでした。
(中略)
しんどくなった現代人たちは「わかったよ、もういいよ。あんたたちの言う通りだよ。どうせオレたちが見ているのは全部幻想だよ。悪かったね。でも、オレたちの目には幻想しか映らないんだよ。オレはその中で生き死にするんだから、ほっといてくれよ」といきなり居直ってしまった。これが 21 世紀になってから猖獗をきわめることになった「反知性主義」の実相です。


これに対して、いくらそれは「非常識だ」と言ってみたところで、そもそもあなた達と私達は、その「常識」自体が異なるんだと言われたら、それで話は終わってしまう。

そして、どれだけ大きな物語を否定しててみても、必ずまた新たなコミュニティ(集団)を媒介にして、また新たな「大きな物語」が誕生する。

具体的には、神話がダメなら宗教の中で、宗教がダメなら政治の中で、政治がダメならフィクションの中で、そして、現代においてはたとえば圧倒的に推し活の中で、そのような「大きな物語」が誕生しているように、僕には見える。

その大きな物語こそが、それぞれの推し活のコミュニティの中における「リアリティ」であり「真善美」だから、なんでしょうね。

そしてそれがまた、政治や経済にも強く影響を及ぼしていくという構造です。

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僕が思うのは、意識も経験もきっとどちらも正しいんです。でも、きっとどちらも間違っている。

意識と経験のあわい。

それは経験でもあり経験でもない、意識でもあり意識でもない。

近松門左衛門が語ったとされる芸術論、現実と虚構との微妙な境界に芸術の真実があるとする「虚実皮膜」のような状態のバランス感の中に、きっと本当に到達するべき点は存在しているはずで。

ただ、僕からすると現代は意識があまりにも優先しすぎてしまっているように見える。

ゆえにやっぱり今この時点においては、実践や経験に比重を置いて、それを淡々と増やしていくことが、きっと求められているんだろうなと。

だから、なによりも各人の「純粋経験」のほうを大切にしていきたい。そして、それをプラグマティズム的に発見していくこと。

コミュニティをつくるときに、大きな物語を共有し、それが私達の文化や歴史観なんだと捉えて、その幻想を共に眺めるということも可能ではあるんだけれども、そうじゃなくて、各人の「純粋経験」の中から発見し合うことのほうが本当は大事なんだと思う。

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推し活に世界が侵食されて、AIも登場する昨今、そうやって推し活もAIもやらない、真逆のことを、僕はやっていきたい。

きっと本当の意味で残されたコミュニティの役割というのは、たぶんそれしかないと思います。

そして、そのヒントになるのが、昨年のほしまどさんのヴィパッサナー瞑想の報告会のイベントですし、先日のごめさんのアフリカ報告会も、まさにソレだった。

どちらも、非常に有意義なイベントだったなあと思います。このようなメンバー同士の「実践の報告会」のようなイベントを今年はもっと増していけたら本当に嬉しい。

それぞれが実践し、真に体験した身体性の高揚感、それが一体何だったのかを、みんなで対話形式で深めていき、お互いに問いかけながら、後から遡行的に発見していくような場がいま本当に重要だなあと。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの実践のきっかけとなっていたら幸いです。