昨日、Wasei Salonの中で開催されたトークイベントの中で、「日常の中における退屈さ」のような話題になりました。

具体的には、最初のころは楽しかったけれど、次第に飽き始めていることについて。

話を聴きながら、間違いなく僕にもこの感覚というのは存在していて、それが慢性化していて、完全に不感症みたいになってしまっているなあと。

そして、これというのは、いま多くの日本人に共通する問題でもあり、もはや「国民病」みたいなところがある気がしています。

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これは、マンガ『葬送のフリーレン』が今アニメも含めて大ヒットしている理由にもつながると思います。

最近の主人公というのは基本的に、そんな「退屈」を感じていることを主体にして描かれていることが非常に多いなと感じる。

ある程度欲しいものは手に入ったけれど、とはいえ、何かが自分の中で満たされたわけでもなく、その漠然とした状態に退屈さを感じているというような。

一方で、悪役のほうがいつだってみずみずしく、ものすごく人間臭く、欲望を持った存在として描かれている。

フリーレンで言えば、魔族のほうがよっぽど「人間らしい」と思える好奇心なんかを持ち合わせているわけですよね。

そして、あのマンガの秀逸なところは、魔族に明確な「悪意」があるわけではなく、ある種の無邪気さのようなものとして、その「人間らしさ」が描かれている点です。それが本当に素晴らしいなと。

人間なら、誰しもが当たり前に持ってしまう欲望、その欲望だけに忠実で、世間(人間世界)を完全に無視し、そのサイコパスみを、本当に上手に描いているなあと思わされます。

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一方で、それが悪役じゃない描かれ方だとすれば、現代で人間らしい純粋な欲望を持って許される存在として、描かれるのは素直な子どものキャラです。

だから『SPY×FAMILY』も今こんなにも流行っている。

そして、アニメ版のフリーレンとアーニャが、同じ声優さんであることは本当に偶然ではないと感じます。

アーニャが年齢を重ねれば、きっとそのままフリーレンになる。まったく両極端のキャラクターだろ!っていうふうに思われるかもしれないけれど、それは人間世界に染まった結果としての変化であり、実は同一平面上というか、間違いなく両キャラクターは今日性のあるキャラとして、お互いがその延長線上に存在しているなと僕は思います。

逆に、その対立軸にいるのは『かぐや姫の物語』のかぐや姫のような存在。でもそんなわがままだと評価されてしまうかぐや姫も、人間社会に嫌気が差して、月に帰ってしまいます。

これは完全に余談なのですが、男も女もずっと泣いてばかりいたという平安時代が今年の大河ドラマで描かれるのも、なんだかとても納得するところ。意識がつくり出した世界が、いくところまで来てしまった感じはものすごく強く実感します。(逆に言えば、身体性を中心にした鎌倉時代、その夜明け前とも言えそう)

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さて、話をもとに戻すと、だからこそ悪役も一定の人気があって、一部の読者からは強く好まれる理由でもあるのかなと思います。

だって、非常に彼らは人間臭い存在だから。なんというかその体臭みたいなものが強いんです。

倫理やポリコレで、デオドラントなされていない存在として、登場している場合が非常に多いですよね。

逆に言うと、あまりにも強い倫理観を受けて、その倫理観に当てられて不感症になった存在が、「退屈さ」と共に、主人公になりがちなのが、現代のマンガや小説の潮流でもある。

なぜなら、現代人がまさにそうだから、です。

退屈な人間からすると、人間の欲望をそのまま露呈させてしまっている状態の存在は、「悪」臭であって、そんな「悪」レッテルを貼られてしまうというのが、現代の特殊性ということなんでしょうね。

近年の政治や芸能など、ありとあらゆゴシップニュースが、基本的にすべてこの構造です。

言い換えると、日本人がマンガやアニメばかりを観すぎて、権力構造をわかりやすいテンプレートで理解し、献上する・されるみたいな物語を勝手につくり出し、それを内面化しすぎてしまっているようにも僕には見える。

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果たして、この「人間臭さ」というのは、必ずしも排除しなければいけないものなのか。

そうしないと、共同体というのは本当に成立しないのかという点において、これは問題になってくるのかなと。

この点、たとえば、日本の農村集落にあった「夜這い」の風習の話なんかは非常におもしろいなと、いつも思ってしまいます。

かなり極端な話ではあるのだけれども、僕はジブリの鈴木敏夫さんが時折ラジオでも語られるこの話にいつもハッとさせられる。

鈴木敏夫さんの書籍『読書道楽』から、このお話を少しだけ引用してみたいと思います。

鈴木     もう一方で、おもしろかった民俗学者が赤松啓介なんです。『夜這いの民俗学』という本を書いているんだけど、これにも驚かされた。
(中略)
村によって夜這いのルールは微妙に違うんだけれど、基本的なところは同じで、まず男は童貞でなきゃいけないんですよ。一方、女性はベテランでなきゃいけない。だから、男が夜這いに行くんだけど、リードするのは女性のほうなわけ。ある種の性教育になっているんです。     この本のなかで描かれた当時の女性って、子どもを8人から 10 人産む。そうするとだいたい5人が亭主の子どもで、残りは夜這いでできた子だったりする。だから、村の人たちにとっては、生まれた子どもを見て、相手は誰かというのを当てるのが娯楽になっていたなんていう話も載っている。そうすると村のなかの血縁関係は? 
──    ものすごく入り組んだ関係になりますよね。 
鈴木     全員が親戚なんです。そういう村では事件は起きない。これは合理的ですよね。誰がそんな仕組みを考えたんだろうというぐらい。     それって共同体としては理想だと思ったんですよね。


これは現代においては、倫理的に絶対に許されないことだけれども、それはそれで当時の時代においては、人間が社会や共同体を築いて、生き抜いていくための知恵として用いたひとつの風習でもあったんだろうなあと思います。

それを僕ら現代人は、「人間臭い」として、完全にデオドラントしてしまったわけです。

そういうのは「悪」であり、悪役がやることなんだ、として。

繰り返しますが、夜這いは極端な事例だし、それを現代に復活させろなんて一ミリも思わない。僕自身も、単純にものすごく不快感を感じることではあるんだけれども、これを不快だと感じるのが、現代人の嘘偽らざる「潔癖性」でもあるんだろうなと思うわけです。

従来は、これはハレとケの問題の話であって、もっと違う文脈で評価される問題だったはず。少なくとも、善悪の倫理観の問題で語られるような話でなかったはずです。農村レベルにおいては。

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共同体に害悪をもたらしそうな「人間臭さ」はすべてデオドラントしろ、っていうのが現代の倫理観です。

その結果として、人々の中で不感症が蔓延り、去勢されたような状態となって、漠然とした日常を送りながら、その退屈さに打ちひしがれているフリーレンみたいな人が増えてしまったんだと思います。

このような人間の欲望と共同体の構築、退屈さや不感症にならないための構造を、一体どうやってつくっていくのかは、地味にいま喫緊の課題のひとつだなと感じます。

最終的には、「人間としての欲望」をあまりにも制御しすぎていて、そのポリコレ言動は果たして偽善なのか、本心からなのか、本人さえもわからなくなってしまっている場面を本当に最近よく見かけますから。

そして『カラマーゾフの兄弟』や『源氏物語』のような古典作品を読んで、「えっ、なにこれ、全然意味わからん、なんでこんなに情欲に溺れているの」と思っているような僕ら自身が、むしろたぶん人類史的に言えば、逆に完全に意味分からない存在であることは間違いない。

「おまえらこそ、どうかしてるぞ。人間として、本当に大丈夫か?」と、遠い空の向こうから思われているんだろうなと思います。

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「冷静に考えれば〜、俯瞰的に考えれば〜」と、そうやって何もかもメタ視点で捉えてしまう功罪がここにもある。

メタ視点で捉えてしまった時点で、既に他者の倫理観を内面化し、倫理で捌く視点が強く自己の欲望の内側にまで、介入してくるわけですから。

自己を他者と完全に混同してしまうとは、きっとそういうこと。

これもまた、西洋哲学におけるメタ視点の呪いの一つだなあと思います。

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最後に繰り返しになりますが、フリーレンみたいな世界観は僕も大好きです。

だから、マンガを批判しているわけでは決してない。むしろ今の「気分」や「空気」を本当に上手に描写している作品だなと思うがゆえに、今日みたいな話にもつながりました。

逆にいえば、コレ以外の方法で自分たちの肯定の仕方が現状の僕らにはほとんど存在しないという、非常に貧しい状態なんじゃないかとも思います。

そして、それでも最後まで残っているのもが「魔法」という「暴力」であることも、非常に示唆深いなと。

どれだけ退屈な世界でも、暴力だけは絶対に消えない。フリーレン自体も魔法を使うときはイヤイヤながら、一番イキイキしている瞬間でもある。それは、読んでいる読者だってそうです。

これもまたなかなかにむずかしい問題だなあと思う。

つまり、この漠然とした退屈さを放置し続けた場合、その最終到達地点はきっと暴力、つまり戦争なんだろうなとも感じてしまいます。

もちろん、ここに答えは存在しない。わからないからこそ、わからないことを今日この場にも書いてみました。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんの何かしらの参考となったら幸いです。