先日、けんすうさんがTwitter上で、「ものすごい嫌われそうなことを言うと」と前置きしながら、以下のようなことを書かれていました。

昔からビットコインを触っている、持っている人の多くが「自分たちは投資や投機ではなくて、この技術や思想に興味があるんだ」ということをよく言っていて、それは本当に99%事実だと思うんですけど、その人たちが実際にどのくらい儲けているのか?というと、多分信じられないくらいリターンが出てしまっている


そして、ご自身も大きなリターンがでてしまっている。だから嫌われそうなことという前置きだったようです。

で、この後にも文章は続くので、気になるひとはぜひ直接本文を読んでみて欲しいと思うのですが、この話というのは本当にそのとおりだなあと思います。

https://x.com/kensuu/status/1745248051969819114?s=20

実際に、まわりを見回してみても、そのような立場や資産状況にありながら、ブロックチェーンやweb3のあるべき姿を語るひとはすごく多い。

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で、さらにもっと視野を広げてみると、これって仮想通貨の話だけに限らず、ありとあらゆる事柄に言える話かと思います。

そして、ここからが今日の主題になってきます。

この点、たとえば実家が裕福である人や、圧倒的に家柄が良い人たちにも似たような構造にある。

つまり生まれた瞬間に、彼らは両手いっぱいにビットコインを抱えて生まれてきた、みたいな話に近いわけですよね。

そして、そのような数字で表される有形資産の有無だけではなく、無形資産においても同様なわけです。親がつくってくれた資産だけではなく、そこに地盤と看板のように機能するものが既にたくさん存在する。

本当に、それは一般人なんかとはまったくもって比較にならないほど、なんですよね。

で、彼らは実家が太いがゆえにいわゆるノブレス・オブリージュとしての「キレイゴト」を、世間に対して真正面から語ることができるという側面も間違いなくあると思います。

ここが、冒頭のけんすうさんの話の内容とも相似形を成しているなと。

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で、彼らのような人々は、ものすごく理想的な言説を語るに決まっていてるんですよね。

それは、一体なぜなのか。

そのような人たちは不要なリスクを取る必要がまったくないからです。

一発逆転や下剋上を狙うようなリスクの高い言説をする必要がそもそもない。

それよりも、できる限りリスクを排除する方向に向かう。ボラティリティの低い方向、つまり既に築き上げた「資産防衛」のほうに向かうわけですよね。

それは、有形資産にしかり無形資産にしかり、どちらにおいても同様です。

たとえば有形資産の話で言えば、何十億から何百億の資産があれば、たった3〜5%程度の利回りで、毎年、数千万円から数億円の運用益でるわけです。

そんな人間が、あえてボラティリティの高いリスクのある資産に投資する必要なんてまったくない。それよりももっと手堅い方法を狙った方がいい。そして何より、無駄なリスクを取ってしまい誤って減らさないことです。

だから彼ら圧倒的富裕層は、仮想通貨なんて詐欺だ!って語るわけですよね。

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そしてこれは、自らの金融資産に限らず、思想信条においても全く同様のことが言えるかと思います。

もちろん、本心からそのような「キレイゴト」を言っていると思っているはずだけれども、そもそも、その本心というのも環境の産物だとすれば、彼らにリスクを取るような教育がなされるわけがない。

それよりも徹底的にリスクを排除するように教えられている。

結果として、どんどん守りの言論(つまり、世間から尊敬を寄せられて称賛されるリベラルな言論)になるのは、ある意味で当たり前なんです。

地元の名士たちの顔をぜひとも思い出してみてください。彼らが一体何を語っていたのか、を。

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このようにして、ポリコレ遵守のリベラル保守のような思考が完成する。「育ちが良い」とはまさにそういうことで、帝王学みたいなことのひとつはまさにここにあると僕は思います。

政権を安定させるかのごとく、家柄を安定させるみたいな話というのは、まさしく一緒なわけですから。

下剋上をするわけではなく、既にあるものを死守するとはそういうことです。

だから、そのひとが一体どのような社会的な地位から、美しい言論を述べているのかというのは、しっかりと意識を向けてみた方がいい。

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この点、どうしても、僕らは「客観的な正解」みたいなものがあると思うから、その主義主張の内容だけで判断してしまいがちなんですが、でも、それは置かれている立場によって、意見が変わってきて当然なんです。

若干意味合いが変わるけれども、彼らが「シャンパン・リベラル」のような振る舞いをするのも当然なんですよね。

ちなみにこのシャンパン・リベラルは、以前も語ったことのあるウォークキャピタリズムみたいな話にもつながっていきます。

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そして彼らは、自らの地位や名誉を守るために、もし何か社会の中で不測の自体が起こったら、誠心誠意の慈愛の言葉を述べて都度都度、多額の資産の一部から募金なんかもする。

そうすると、「やっぱりあの家の方々はさすがだ」って世間から称賛されるわけです。それで、自分たちの地位もしっかりと安定します。でも、それは資産全体の中の割合で言ったら、本当に微々たるものでもあるはずなんですよね。

たとえば、貯金 が100万円の人の1万円の募金と、資産100億円の人の1,000万円の募金では、全然価値が異なるわけです。前者のほうが資産のうちの100分の1を投じているわけだから、身銭を切っている割合で言ったら圧倒的に大きい。

でも、彼らの募金額は決して資産割合で評価されるわけではない。

あくまで金額でしか判断されないわけです。なぜなら、その募金の価値を評価する人々は「一般人」だからです。

そして、また来年になれば、彼ら資産家たちは自分は一切何も働かなくとも、安定的なリスクの少ない資産運用の方法で、資産の一部を置いておくだけで、募金した額位上のお金が手元に増えたりもするわけですから。

彼らが募金する1,000万円というお金と、慈愛に満ちた言葉というのは、そういう背景から生まれているということは、理想論とは切り分けて、ちゃんと理解ておいたほうがいい。

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ただ、ここまで聞いて、くれぐれも誤解しないで欲しいことは、だから富裕層や家柄がいい人がズルい!引きずり下ろせ!とか言いたいわけではありません。

むしろ、そのまったく逆です。

そのような状況にいるひとたちの意見によって、ある種の「理想」が語られることは非常に重要なことだ僕は思うのです。

極端な話、「パンがなければ、ケーキを食べればいいじゃない」的な意見や考え方も、世の中には絶対に必要なんですよね。

一見するとバカげた理想論のような発想かもしれないけれど、これこそ多様性のひとつでもあると僕は思います。

それは、戦争から離れた土地の地域に暮らす人々がいるから、そのひとたちが今すぐ身の危険を感じずにいられる論理で、物事を考えられるというあの話なんかとも、全く一緒です。

そして、そういうノブレス・オブリージュ的な行いや思考の余裕が、また別の確度から世間を救うとするならば、彼らには彼らなりの「お役目」のようなものが間違いなく存在する。

だから、彼らを引きずり降ろそうとしてみても仕方ないし、むしろ存在としては非常に重要な存在なのだと僕は思います。ちゃんと貴族は貴族なりに、騎士道精神や武士道精神を発揮してもらったほうが、よっぽど世間のためになる。

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それよりも本当に大事なこと、各人一人ひとりがこのような自分のいる場所を正しく理解し、自分の置かれている状況に見合ったリスクを、それぞれがそれぞれに取りに行くことのほうが本当に重要で。

それは生まれた瞬間に、既にある程度は決まっていることなんだから。

自分の責務や使命みたいなものに、もっともっとちゃんと自覚的になることが大事なんだろうなと。

それを親ガチャという言葉を用いてみたり、身分の高い人の美しい言動に憧れて、自分はもっとリスクを取るべき存在なのかもしれないのに、彼らと同じような言動(それは有形資産においても、無形資産に置いても、です)真似してみてもあまり意味はない。

というか、それは富裕層や特権階級の人々からすると、完全に思うつぼです。

以前も書いたように、彼らとしては自分よりも資産的に劣位にいる人々が、自分と同じ意見を持ってくれていてれば、今のその地位は絶対に逆転しないのだから。


これこそまさに、帝王学の為せる技です。社会はそれで安定するのも一方で真実です。

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それゆえに、自分の置かれた社会的地位に見合った「リスク」を取ることが一番大事。他人を羨んで嫉妬してみても仕方ないんです。

同じ人間なんて、この世にはひとりもいないのだから。

喩えるなら、自らの個性を知り、似合う服を着るのとまったく一緒です。

顔立ちやスタイルなど、生まれ持った素材が圧倒的に優れているひとのファッションを真似てみても意味がない。自分には似合わないだけです。

でも、この世には、どのような外見の人間であったとしても、必ず全員に似合う服が存在している。

それを見つけて、そのスタイルから世の中に対して、一人ひとりが自らの持てる力で精一杯に貢献すること、それが本当のノブレス・オブリージュだと僕は思う。

そのときに他者との比較して嘆き続けていることがいかに愚かなのか。それよりも、自分に配られたカード、そのカードの切り方のほうを徹底的に考えたほうが良いかと思います。

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最後に、何よりも、日本語の文章が読めていて「日本人」としてこの世に生まれてきている時点で、既に世界の中で言えば、上位数%に入り、ビットコインを両手いっぱいに抱えて生まれてきた以上の意味や価値があるわけですから。

そこに対して、もっともっと自覚的になりたいものです。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。