日本全国を長年旅し続けていると、新しく訪れる土地だけではなく、久しぶりの訪れる土地というのも増えてきました。

その体験のなかで本当によく思うのは、数年後に訪れると見違えるほどダサくなってしまったなあと感じるお店や施設というのが、ローカルにはあまりにも多いということ。

最初は、あんなにも世界観が統一されていたのに、 数年後に訪れて2回目、3回目になってくると、棚には隙間なく商品が陳列されていたり、お客さんの目に入るところに当たり前のようにダンボールが見切れていたりするわけです。

売り場自体も、謎にエンドゴンドラが拡張されていたりして、商品の売り場自体を拡張してしまっているような状態。

だったらドン・キホーテに行くわと毎回思います。

1年前、3年前、5年前、10年前は、あんなにもカッコよかったのに、本当にダサい売り場や施設になってしまったなあと、残念に感じることは一度や二度ではなく、数えきれないほど体験してきました。

そういうときは、非常にガッカリさせられてもう一生来ないだろうなあと思わされるし、それ以降は周囲のひとにもなるべくオススメもしないようにしています。

ーーー

で、これっていうのも先日お話した「永久脱毛」の話につながるなあと思んですよね。


「完成形」の幻想から来る誤解みたいなものが、このような残念な結果を生んでしまっているんだろうなあと。

具体的には、構築段階では有名なデザイナーさんを連れてきて、ある程度お金も詰んで、その結果として、本当に素晴らしい空間が完成します。

でも、そのあとに淡々と続く日常、その中での「手入れ」のほうが大切なのであって、完成形というのもひとつの通過点に過ぎないわけです。

その場所を、手入れをしているひとたちにセンスがないと、すぐに残念な売り場や施設に成り下がってしまう。

なぜなら、その現場にいるひとたちというのは、必ず目先の利益を取りに行くから、です。

それが、上司や会社から任されている目標にもなっているわけだから、当然と言えば当然のことだと思います。そのひとたちに、決して悪意や責任はない。

そして良かれと思って、自分たちはドンドンお客さんの選択肢を増やしているんだと思い込んで、売り場に物が増えていくわけですよね。

ーーー

でも、最初を知っているひとは、日に日に荒れていく現場を眺めながら、非常に残念に感じてきて、ドンドンそこからひとは離れていく。

人が離れていくから、売る商品自体をさらに増やしてさらに現場が荒れていくという悪循環。

最後に残るのは、盲目的な信者か最初の評判を聞きつけて、本当に遅れてやってきたラガードの人々のみ。

次第にそのひとたちにも飽きられてしまい、驕れる者久しからず、という状態で、完全に栄枯盛衰です。


ーーー

きっと、スティーブ・ジョブズが去った後のアップル・コンピューターも、そのような状態だったと思うんですよね。

で、ジョブズが戻ってきたあと、それまで売っていたものその大半を整理したという話は非常に有名な話ですが、それも当然のことだったんだと思います。

そして、今のAppleも徐々にその選択肢の多様さのほうをドンドン売りにしてしまっているような状態です。それこそがユーザーファーストだと思い込んで。

ーーー

さて、もちろんこれは、いついかなるときもスッキリ整った空間が素晴らしいというそういう話ではありません。

たとえば、ドン・キホーテのような場所だって、それはそれで成立しているわけですよね。

そういうガレージのような場所、宝探しをしているような売り場であるとお客さんも認識していて、そこに魅力や価値を感じて人々が集まってきている売り場もあります。

キレイすぎるのは、それはそれで違うんだという売り場だって、間違いなく存在する。

これは以前、小倉ヒラクさんがご自身のお店「発酵デパートメント」を運営するなかで、得られた気付きとして語られていたお話なんですが、発酵食品を、セレクトショップみたいにキレイにディスプレイして売るのはなんか違うと語られていて、本当にそうだなあと思いました。

やっぱり発酵食品は、もっと生活に寄り添ったほうが、リアリティがあって逆に親しみが湧く。

だとすれば、全国の生産元から発送されてきたダンボールのまま店頭に並べることのほうが、実はお客さんにとっても良いことなのかもしれないわけです。

ーーー

つまり、ここから考えられることは、どちらにおいてもその世界観の共有や、哲学の共有のほうがここでも非常に大事になってくるということなんです。


何のために、このような完成形を私たちはつくりだしたのか。それが、日々「手入れ」をする現場の人たちにもしっかりと伝わっているかどうか。

さもないと、現場のひとたちも良かれと思って真逆の施策を行ってしまう。

これもまさに昨日のブログに書いた「じつは〜だった」という「訂正する力」の話にもつながるんでしょうね。

つくった人間、創業した人間は、日々その世界観の発信しながら、その認識のズレをお互いにすり合わせることの重要性みたいなものもヒシヒシと感じますよね。

ーーー

さて、ここまでのお話を今度は真逆の方向から語ってみると、数年おきに何度も訪れても、ちゃんと世界観が統一されているところは、それだけで本当にすごいなあと思わされます。

ゆえに、心の底から信頼できる。

たとえば、過去に何度も繰り返しこのブログの中でも言及してきている石見銀山の大森町にある群言堂さんは、それが本当に毎回すごいなあと思わされます。

期間をあけて実際に石見銀山に訪れるたびに、群言堂さんの本店にもランチなどで訪れてみるのですが、ちゃんと変わらずにその世界観がしっかりと統一されている。

初めて訪れたのは、もう7年以上前だったと思うのですが、何年経ってもまったくブレないんです。そこに余計なものが増えたり、逆に必要だったものが減ったりもしていない。

そして、次の時代に合わせた新しい提案も同時に行っていて、町全体でその世界観や哲学のもとづいた提案が常になされているわけです。

何度も繰り返し時間を経過したうえで訪れてみないと、これは絶対にわからないことではあるのだけれども、だからこそ本当に毎回ものすごく感動してしまいます。

ーーー

最初の構想、それによって完成した完成品自体は素晴らしくても、その街を日々手入れする人たちにその思想が広く遍く行き渡っていないと、必ず時間の経過と共にズレていく。

それはエントロピーの法則のようなもので起きてしまうことは仕方がない。

一瞬の「美」というのはある程度のお金をかけて、それこそ一流のクリエイティブディレクターを連れてきて、役者を一時的に揃えればキレイに整った空間はすぐに実現できる。

まさにインスタ映えの世界観です。でも、そこには人々の生活があり、時間は常に刻々と流れていくわけです。

で、運用にはコストが嵩むという理由で、もう枠組みができたのだから、あとは現場の人々だけで回そうとする。でも、きっとそれが間違っている。

逆に言えば、これだけ変化が激しい時代においては、ビジョナリーが社内や地域にいることが、本当に重要なことなんでしょうね。


ーーー

それは、何か常に大風呂敷を広げるというわけではなく、「手入れ」の際に心がけることを語ってくれるだけでいいんだと思います。

昔の人たちは、それを神話や民話などをうまく利用して、大切にするべき思想や哲学を、誰でも理解できる物語形式で、共有していてたということなのでしょう。それが本当にすごいことだなあと思います。

全然、非科学的な方法なんかではない。

そういう手入れの思想が、誰のものでもない「美しい田園風景」なんかも生んでいたわけですよね。

現代は、科学やデータを用いて、人々の意識の統一ができていると思い込んでいるだけで、実際には中身は空っぽで、今のひとたちの方がよっぽど劣化してしまったんだろうなあと思います。

とはいえ、今さらそんな日科学的な宗教性の話に立ち戻ることも不可能です。

これからの世の中において、どうやってその思想や哲学を本当の意味で全員に共有し、現場レベルで浸透させて、みんなで「手入れ」をしていくのか。

それをちゃんと考えていきたいなあと思います。

いつもこのブログを読んでくださっている人たちにとっても今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。