最近よく考えることがあります。

明日も変わらずに存在しているであろうと感じる目の前の事象も、実はいまこの瞬間の連続でしかないということ。

万物は流転していて、絶えず変化し続けている。

つまり、諸行無常であるということです。

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そんな中、昨日とあるNHKの番組をみていたら、歴史学者の方が、そのまた先輩の歴史学者の方から、

「なぜあなたが苦しんでいるのかわかりますよ。」

と言われたことがある、というお話をしていました。

「その理由は、歴史を理解し、歴史に働きかけようとしているからです」と。

さらにその先輩の歴史学者の方は、続けてこう言ったそうです。

「安心してください、あなたが働きかけなくても、理解しなくても、歴史は続きますよ。」

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この言葉は、歴史学者でも何でもない自分にとってもズッシリきました。

そうなんですよね、歴史に何か影響を与えようとするから、そこに苦しみや悲しみが生まれる。

本来は、「ただ、いま目の前で起きている出来事を真摯に記録する行為」だけでも、十分に価値があるのだろうなあと思います。

その記録を見て「どう分析し、何を思い、いかに行動するか」は、次の時代を生きるひとたちがそれぞれの立場から考えればいいことだからです。

実際、いまを生きる僕らは、過去の歴史と対峙して、そのように考えて行動している。

だからこそ、僕らが本来できることは、いまの出来事を歴史として価値のある素材となるように、真摯に記録し続けることなのかもしれないなあと思うのです。

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「民俗学」という学問を、いまこの時代に生きる僕らが眺めてみると、彼らはとても尊い仕事をしてきたのだなあと感心させられてしまいます。

でも、この気づきを得て、改めて民俗学における過去の知の巨人たちが行ってきたことをもう一度見直してみると、いま自分たちがやろうとしていることと本来何の大差もないのかもしれないと思うようになりました。

彼らは、彼らの生きた時代の「いまこの瞬間」を真摯に記録してきただけだとも言える。

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ここで大切なことは、「歴史に何か影響を与えてやろう」という個人の野心や野望のようなものではなく、人類の「縦の系譜」を意識して、そこに自分たちがどんな一石を積もうとするのか。

そしてその上に、後世を生きる人々がどんな石を積んで欲しいと願うのか、です。

それは「祈り」と言い換えてもいいのかもしれません。

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柳田国男は、近代化の影響を受けていま変わろうとしている日本の里山文化を、記録として残そうとして『遠野物語』を書きました。

同じように、たとえコロナの影響を受けていなかったとしても、いま世界は大きく変わろうとしているタイミングであることは間違いありません。

こと日本においては、人口も激減し、経済の形も大きく変化しており、コミュニティの在り方も以前とは全く別のものに生まれ変わろうとしている。

つまり、まさに歴史のダイナミズムの中に僕らはいま生きているわけです。

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いまを生きる人間のひとりとして、個人の承認欲求などを超越したある種の使命感を持って、これからも「働く」に取り組んでいきたい。

この使命感はきっと新たに獲得していくものではなく、もともと各人の中に存在している「何か」であり「個人主義とは対極にあるもの」のような気がします。

無意識下にあるソレを頼りに、今日も働いていきたい。

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そんなことを昨日、「灯台もと暮らし」のメンバーと打ち合わせの雑談の中で考えました。

いつもこのブログを読んでくださっている方々にとっても、今日のお話が何かしらの気づきや発見に繋がったら幸いです。