現代は、まったく見ず知らずの人間同士が、初対面で交流するときにお互いのことを信頼するための「とっかかり」がとても少ない世の中です。

抽象的なイメージとしては、ツルッとした丸と丸同士が、なんとかつながろうとしたときに、そこにとっかかりや結節点がなく、お互いに不気味な存在となりがち。

そうなると、基本的には、警戒モードでつながることになります。なぜなら、相手がどんな人間なのか、皆目検討がつかないからですよね。

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それでも若い人たちは、コロナ禍でマッチングアプリなどを通じて、どうにかして新たな出会いを求めて、つながろうとしていた。

その結果として、「推し活」が活用されたんじゃないかと僕は思うんです。

「目の前の相手が何を推しているか」それを共通の話題にして、そのような活動の中で生まれてくる価値や文化、楽しさを目の前の人間の一つの信頼の担保にしていたということなのかなあと。

たとえば、老若男女、誰にでもわかりやすい例であれば「ジブリ好きのひとには、悪い人はいない」みたいな話というのは昔からよく語られていました。

それが今は、各方面ごとにドンドンと細分化されているような状況なのだと思います。

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そして、これからは完全にコロナも終息したわけだから、若い人たちだけではなく、日本全体で、そのようなお互いに何者かわからない者同士での流動的な交流が、さらに発生していくことももう間違いない。

そのときのつながりを作り出すための最初の結節点、お互いが警戒モードを脱して、その何のとっかかりもない者同士がつながるための相手の信頼性を担保するための条件として、推し活が重宝されるはずなんです。

それが、今もとどまることなく推し活がドンドン拡大傾向にあるひとつの理由なんじゃないかと思います。

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で、きっと、人類はもともと「宗教」を用いて、そのような流浪の民同士がお互いに最初の信頼を構築するためのとっかかりとして用いていたはずです。

たとえば、日本人が無宗教だと言って、海外の一神教の国に行ってしまうと、それだけで倫理観が疑われてしまい、ものすごく警戒されるされてしまうという話がある。

だから、海外に行くときは、入国審査のときに、宗教の欄に「仏教徒」と書いたほうがいいという、あの話なんかにもとてもよく似ているかと思います。

で、これが宗教なき日本の国内においては、長い間「地元・出身校・会社」がその結節点だったはずなのです。

ただし、ここからがめちゃくちゃ重要な要素になってくるのですが、そのような地元・出身校・会社というラベリングによって出会う人たちが、ここ十数年でことごとくズレてしまうようになってしまった。

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それは、一体なぜなのか。

このような所属集団が、すべて「コスト」の論理で動くようになったからだと思います。

そこに思想や哲学というものが、もうほとんど存在していないわけですよね。

いわゆる「コスト教」のようなものを、人間同士のつながりを構築するためのとっかかりとして用いると、逆に不都合が生じるようになった。

たとえば、「地元が一緒だから、働いている会社が同じだから、出身校が一緒だから、このひとは信頼に値するだろう」という風に期待しつながろうとしてみたところで、その期待は完全に裏切られてしまって、期待とは裏腹に、残念な経験をしてしまったという人たちがあまりにも増えてしまったわけです。

これは、先日も語ったように、住民や生徒、そして社員を顔のない「数字」としてでしかカウントせず、評価や査定、そして生産性という“絆”でつながり、ときにお互いを「コスト」だと断定し合って、AIと人間を同列に扱ってしまったことが原因なのだと思います。

ソフトバンクの孫さんが「会社の役員は、全員AIに置き換えたい」と冗談交じりで発言したのが、それを強く物語っているかと思います。

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つまり、大企業や有名校に集まってみても、理念や価値観、文化観みたいなものは尊ばれなくなり、そこにあるシグナリング効果はまったく別物。たとえば「お金が欲しい、成功したい、地位や名誉が欲しい」というような、ひどく野心的な共通点しか見いだせなくなってしまった。

そのような共同体を担保にして、人間同士で出会ってみても、そこには圧倒的に不一致のほうが大きいことは、至極当然のことだと思います。

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一方で、現代日本において「推し活」だけはそうじゃない。

そこには、経済とはまったく異なる論理の価値観や文化観が内在していて、それによって駆動している本当に稀有な空間です。

アイドルやアニメなどいわゆる従来のオタクカルチャーなんかは、そこにある「人間性」から立ちあらわれる価値観にみんな惹かれているわけですから。

一方で、「あのひとは経済価値、コスパやタイパが良いから、推したい」ということには絶対にならないはずです。

で、ここからわかることは、人間同士がつながって、お互いが裏切られたと思わないためには、どうしても思想や哲学、そこから生まれてくる価値や文化が必要なわけです。

さきほどのジブリの例に話を戻すと、ジブリの映画の中には、そのような要素が作品の中に「コレでもか!」というほどに落とし込まれているから、信頼性の担保にできるわけです。

だから、ジブリを推しているという状態において、既にそのようなスクリーニングが済んでいるという状態にもなるわけですよね。

これはスポーツで喩えるなら、最初から「ルール」や「スポーツマンシップ」を把握してくれている状態ということです。その集団内ではすぐにゲーム(信頼構築)が始められるのも当然です。

つまり、アーティストやマンガの物語がそのまま、共同体や集団の「解説書」や「マニュアル」となっているわけです。

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このように、推し活を通じて見事に、とっかかりができる。

何に価値を感じて、何に価値がないのだとお互いに信じているのか、その価値基準も明確に理解し合える。

それが、警戒モードを解除するための、ひとつの大きなカギになります。

「心が通じ合えた」と思えるような体験というのが、推し活自体を担保にして、まったく見ず知らずの人と人との間で、つながることができる。これは本当にすごいこと・

目の前にいるひとが、見ず知らずの赤の他人であっても、推し活を通して出会った人だった場合においては、かけがえのない友人に変わる可能性が飛躍的に高まるわけですから。

そして、そのような体験を繰り返す中で、結果として自らの周辺の人間関係が最適化されていくように感じられていく。それがそのまま、自らの「多幸感」や「幸福感」にもつながっていくということなのでしょう。

なぜなら、人間の悩みの9割は人間関係の悩みであって、あとはそこに少しのお金と、健康があればいいのだから。

にもかかわらず、大企業はそこを勘違いして、人間関係と健康を完全に犠牲にし、すべて「お金」だけに終始して、数字で判断できる事柄に振り切ってしまった。

それが今、大企業や地元、大学が信頼されない理由なのだろうなあと思います。

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最後にまとめると、もともと人々を紐づけてくれていた機能を有していたものが、資本主義の論理で加速してしまった結果、自ら自滅してくれたことがきっかけで、「推し活」だけがお互いの信頼性を担保するものとして急拡大した。それが僕の仮説です。

何の後ろ盾や担保がなかったとしても互いに信頼し合う、その信頼に値すると思えるつながりを生み出すきっかけが、都市空間においてはきっと、推し活が最適だったんだろうなあということです。

推し活のような明確に一神教的な神や教祖が存在し、そこから発信される経典、さらに信者が一斉に集う宗教施設での熱量や盛り上がりのほうが結、果的に重視されてしまったというのは、なんとも皮肉な話だなあと思います。

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ただ、一方で、推し活は「搾取」とも表裏一体になる危うさがあることも間違いない。

それは、宗教団体もそうであるように、です。

また、そのような宗教的な熱狂に対して、疑い深いひとたちもいる。もちろん僕も、そのひとりです。

そして、そのような人々にとっての信頼の担保の役割を担う場所も当然必要になってくるはずで、それがこのWasei Salonのようなコミュニティだとも思っています。

だからこそ、コミュニティというのは、資本主義の論理で駆動してはいけないんですよね。

それよりも、今人々の中にある漠然とした枯渇感、そこに間接的に寄与するものである必要があるはずで。当然、思想や哲学、価値観や文化も同時に明確に打ち出していくことが必要になる。

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来年以降、より人々の交流自体が活発化していくときに、今日の話は非常に重要な視点になってくるかと思います。

Wasei Salonは、ありがたいことに、懇親会のような場所でも誰ひとりとして孤立せず、合宿のような機会で、お互いにリアルでは「はじめまして」であっても、2泊3日で一緒に行動していても、まったく苦痛ではない。

コミュニティメンバーであるということを担保に、お互いの個や人生のあり方を尊重しつつ、一方で、共に交流し、丁寧に対話をすることもできる。

これがいかに現代社会において貴重なことなのか。なんだかものすごくありがたいことだなあと感じました。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。