この前、約20年ぶりに再開した高校時代の友人が、

「マルクス・ガブリエルは『世界は存在しない』と語り、ひとりひとりに『意味の場』が存在するだけだと語っていたけれど、あんなのはわざわざ言及することではない」と話していて、

「えっ?どういうこと?」と聞いてみたら、

「世界はたった一つだと思われているけれど、でも本当の『世界』というのは、ひとりひとりのカタカナの「セカイ」があるに過ぎないんだ」と。

「新海誠の映画などを筆頭に『セカイ系』を直感的に受け入れる日本人にとっては、それはあたりまえのことだよね」と語っていて、

この話は、本当にめちゃくちゃわかりやすい説明だなと感動してしまいました。

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つまり、マルクス・ガブリエルのように、わざわざ「意味の場」のような話をしなければいけないのは、西洋哲学が迷い込んだ隘路のようなもの。

それをわざわざ言挙げしないといけないのは、たったひとつの世界や、たった一つの真理を突き詰めていくことを前提として科学を発展させてきて、それこそが「世界」だと規定しているから。

その前提を疑うという意味で、ひとりひとりの「意味の場」みたいなものを提示なければいけなくなってしまった。

それが結局、巡り巡ってドナルド・トランプの「オルタナティブファクト」や、全員が自分たちが被害者であるという世界線の物語を各地で生んでしまっている。

他者は常に侵略者であり、自分たちはその侵略を防衛しているだけに過ぎない、と。いつだって自分たちは被害者だと誰もが本気で思っている。プーチンだってネタニヤフだって、習近平だってきっと全く同じことを考えている。

あとは、民間レベルで言えば、野の医者たちの怪しいスピ系も似たような話もそうです。

でも、本当はそれもすべてひとりひとりのカタカナの「セカイ」が重なって、みんなが自分のカタカナの「セカイ」を漢字の「世界」だと思いこんでしまい、そこにハレーションが起きているに過ぎないわけですよね。

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で、この話っていうのはここ最近頻繁にご紹介してきた、心理学者の中井久夫の言葉「自分が世界の中心であると同時に、世界の一部でもある」ともダイレクトにつながるなあと思います。

中井久夫が語ったことはつまり、漢字の世界と、カタカナのセカイ、そのバランスについて言及したかったのでしょう。

結局は、この振り子を行ったり来たりが大事であって、健全な大人というのは漢字の世界と、カタカナのセカイ、それをバランスよく振り子のように行ったり来たりしているんだよ、ってことなんだろうなと。

こうやって説明し直してみると、アニメ世代の僕らにとって、一気にわかりやすくなるから本当に不思議です。

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で、もちろん、僕が最近ひたすら読み続けている村上春樹は元祖・セカイ系の作家です。

いま話題の、三宅香帆さんの本『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』の中でも、「僕」と「私」の物語が大流行したのが80年代であり、その代表が村上春樹の『ノルウェイの森』だと書かれていて、半ば批判的に語られていました。

で、このように大体のインテリや既存のエスタブリッシュメントからは「こどもっぽい」と批判されるのがセカイ系の特徴です。

それは当然ですよね。とても幼稚に見えますから。新海誠監督の『天気の子』が公開されていたときにも、似たような議論が散々なされていました。

世界の平和よりも、自分と自分の好きな子の未来を優先するんだから、ポリコレの視点から眺めたら、最悪の決断に見えるはずなんです。

特に、エスタブリッシュメントやインテリ側のひとたちというのは、現実を直視し、子供時代に思いを馳せていた自分の「セカイ」よりも「世界」のほうをちゃんと優先して大人になって、今の地位に成り上がった人たちが大半だから。

セカイ系を優先した物語を描こうとする人たちにイライラするのは、いつだってそんなリベラルなひとたちであって、彼らはもっと世間、つまり漢字の「世界」に気を使え!となる。

その論調の集大成がポリコレやSDGsのような論調に結実していくのだと思います。

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一方で、セカイ同士の衝突、もしくは漢字の世界のマジョリティや集団によって傷ついているマイノリティのひとたちも、世の中には存在していて、悪意なく足が踏まれている。

そこで、ケアの文脈も繰り返し語られるわけです。今は、そのような声も非常に大きい。

『利他・ケア・傷』の倫理学のような本に書かれていた「ゲーム」や「劇」というのは、いうなればカタカナの『セカイ』の話そのものだと思います。

相手のなかにあるセカイ、それを尊重しよう。それこそがケアなんだと。

つまり、「自分の大切にしているセカイよりも、その他者の大切にしているセカイの方を優先することが利他である」というような。

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で、冒頭の話に戻って、その友人が同じ話の文脈の中で、「だからこそ『半透明』というメタファーが大事なんだよね」とも語ってくれました。

この表現に僕はものすごく強く膝を打った。こちらも本当にそのとおりだと思います。

結局この「世界vsセカイ」の対立というのは、突き詰めるとエヴァの「人類補完計画」のような話にもつながっていくから。

全員の壁を取っ払って一つになってしまえばいい、もしくは、徹底的に個人と個人の間に壁をつくればいい、そんな「統合と分離」の二項対立の議論につながっていくわけです。

現代は昭和の反省を活かして、壁を高く築いて、お互いのプライバシーを重視する方向に向かっている。でも、それで孤立や分断も同時に深まっているから、コミュニティだ!という話にもなっていたりもする。

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じゃあ、このときに一体何が大事になってくるのか。

たぶんそれは、お互いの「違い」を尊重することなのではないのかなと。

しかも大事なのは半透明な感覚として、お互いをちゃんと認識し、その上で尊重をし合うことです。「膜」というメタファーも使ってくれていたのですが、それも本当にそのとおりだなあって思いました。

ここが今日の主題でもあります。

否定するにしても、「包摂の中の否定」であって、「排除の中の肯定」ではない。

それは半透明で膜だから「包摂の中の否定」が可能となる。排除の中の肯定は、言葉尻は柔らかくとも、完全に硬い鋼鉄のシャッターを下ろすようなもの。

この半透明や膜という実感が、今の僕らには圧倒的に足りていないよなあと思う。

それよりも社会学者・上野千鶴子が語るような「半身で関わる思想」のほうが、わかりやすくて万人受けしてしまう。

でも、僕は半透明の思想には共感できても、半身の思想には全くもって共感ができない。それらは完全に似て非なるもの、です。

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そして、言われてみれば、セカイ系が流行ったゼロ年代には、確かに半透明の感覚が共有されていたような気がします。まだ、どっちつかずが許されていた時代でもあったからです。

たとえば、当時は、スケルトンのガジェットが流行っていたり、SFの物語で描かれるインターフェイスとかも半透明。基本的にはレイヤーが重なり、奥が透けているものが多かったですよね。

「エアロとかクリアとか、そういう名前も多かったよね」と、教えてくれてものすごくハッとした。

つまり膜というメタファーは完全な統一でも、完全な分離でもなく繋がりつつも、ちゃんと隔てられている状態を指しているわけです。

今の若い子達が直感的に「Y2K」を取り入れて、スケルトンや当時のサイバーパンクっぽいファッションを取り入れていることを考えると、この半透明の概念に、直感的に共感しているとも言えそうです。

彼らは、繋がりつつも同時に隔てられた、そんな状態に強く魅力を感じているということなのかもしれません。

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あと、これは以前もブログに書いたことではあるのだけれども、今日のこの話というのは哲学者・西田幾多郎の「純粋経験」のような話にもつながっていくと思っています。

まさに主客未分の状態の話、そこから導かれる「あわい」のような話でもある。

そして、この西田幾多郎の話がおもしろいのは、主客が分化したあとに、またもう一度それが再統一に向かう、という話でした。

「主客未分→主体と客体の分化→主客の再統一」というふうに。


この西田幾多郎の話を紹介するときに、同時にご紹介した思想家・吉本隆明の言葉も、非常に重要だなあと思っています。

「<知識>にとって最後の課題は、頂きを極めその頂きに人々を誘って蒙をひらくことではない。頂きを極め、そのまま寂かに<非知>に向かって着地することができればというのが、おおよそどんな種類の<知>にとっても最後の課題である」


<非知>に向かって着地する、それは主体と客体を分離したままだから、最初と何も変わらない状態だと思われてしまうかもしれません。

でも、その状態というのは、つながりを理解したままに、それぞれの違いを尊重できる状態に到達できる。

まさに振り子のバランス、その感覚を吉本隆明は見事に別の言葉として表現してくれている。

それが半透明や膜のメタファーともリンクするなあと思ったわけです。

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もちろん、当時10代だった僕らが、熱狂していたのもきっとソレが理由だったはず。

その時は、もちろんこのような言語化なんて到底不可能だったわけだけれども。

ただし、これは簡単にこじらせる方向へとも向かってしまう。勢い余って、壁の向こう側に本当にいとも簡単にストンと落ちてしまう。その危険性を書き続けてくれているのが村上春樹だったりもするわけです。

というか当時、青春時代ど真ん中だったロスジェネ世代、僕らよりも少し上の世代は実際見事に落ちてしまった人たちがたくさんいたし、「あわい」に行ったまま帰ってこなかった人たちもたくさんいる。

だからあれはダメだったんだと振り返られる対象として、今も当時と変わらない文脈として語られている気がします。あの忌々しい幼稚だったオタク文化の象徴として。

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でも、20年近く経過した今だからこそ、そして「世界」の分断がここまでわかりやすく進んでいて、お互いがいがみ合っているからこそ、「セカイ」系の半透明の感覚にもう一度光を当てよう、それはとても理にかなっている話だなあと僕は思いました。

ゼロ年代のあの経験があるから、もう一度挑戦できることもあると思う。

そして、あちら側に降り立ったあとに、ちゃんとつながっていることを確認して、またこちら側に戻ってくること。

このあたりは、まだうまくは言語化できていないけれど、その友人が最近書き上げたという著作をしっかりと読み込んでみながら、改めて丁寧に考えてみたい話だなあと思います。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。