AIが出てきて、できることが本当に増えたなあと思います。だから、素直に「やったー!やりたいことが全部できる」とはしゃいでしまう自分がいる。

これまでなら時間がかかっていたことが一瞬で終わるし、自分ひとりでは届かなかった発想にも、ずいぶん早くたどり着けるようにりました。

でも、不思議なことに、AIを使えば使うほど、それと並行して、まったく別の感覚も湧いてきます。

それが「ああ、世の中の金メッキがどんどん剥がれ落ちていく」という感覚です。

これまで「能力」だと思われていたものや、「価値」だと思われていたもの。そのほとんどが、実はただの金メッキだったんじゃないか、と思わされてしまう。

もちろん全部が無意味になるとまでは言わないけれど、「それっぽさ」だけで成立していた価値は、AIの登場でかなり剥がれ落ちてきた感覚があります。

AIは、人間に新しい能力を与えると同時に、人間が能力だと思っていたもの、その金メッキをドンドン剥がしていく。

最近は、そのことを強く感じるようになってしまいました。

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そんなときに、ふと思い出したのが聖徳太子が語ったとされる「世間虚仮、唯仏是真」という言葉です。

「世間は虚仮であり、ただ仏のみが真である」という意味です。

この言葉を以前は「まあ、原理的にはそうなんでしょうね」ぐらいに思っていたけれども、AIが出てきたことによって、この言葉が急に現代的な響きを帯びてきたように感じるから、本当に不思議です。

「聖徳太子さん、あなたの語ったことは何も間違っていなかった」と思わされる。

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ただし、ややこしいのは、この感覚はおそらく多くの人には伝わらないということです。

AIによって「できることが増えた」と喜んでいる人に対して、「いや、それは世間虚仮が加速しているんですよ」と言ってみたところで、たぶん意味不明。

「もっとできるようになる、もっと効率化できる、結果として、もっと稼げる、もっと評価されるようになる」そういう方向に向かって邁進しているひとにとって、AIはものすごく強力な道具なわけで、そこで「世間の金メッキが剥がれている」と言われても、聞く耳を持てないのは、当然のこと。

それは、その人たちが浅いからでは決してない。

人間は、その世間的価値基準の中でこそ、生きているからです。もっと言えば、その世間的価値の中で「私」を立ち上げてしまっている。

それは僕自身も一切例外ではない。

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つまり、僕らはそういう物語、言語ゲームの中で自己を、私を保っている。

だから、世間的価値を否定されると、自分自身さえも否定されたように感じてしまう。

「生産性なんて虚仮ですよ、市場価値なんて仮のものですよ、あなたが誇っている能力もAIができるようになりましたよ、その『できる私』も物語の産物ですよ」なんて言われたら、普通に腹が立って当然です。

「こっちは本気で頑張ってきたんですけど!」と言いたくなるのが、人間として自然な反応だと素直に思います。

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ここで、最近読んだあるプラユキ・ナラテボーさんの仏教にまつわる視点のXのポストを思い出しました。

https://x.com/phrayuki/status/2047732431869096401

僕らはよく、「恐怖や苦しみは、自我が作った物語だ」と言う。つまり、「私」がいて、その「私」が勝手に妄想をふくらませているのだ、と。

でも、仏教の視点から眺めれば、そうではないらしい。「私」という行為主体が妄想を作るのではなく、無自覚のうちに思考プロセスが進行して、その結果として「私が苦しんでいる」という自我物語が生まれてくる。

つまり、自我は原因ではなく、結果なのだ、ということです。

「私がいるから恐怖がある」のではなく「先に恐怖があるから、私という存在が生まれてくる」。順番が僕らが普段考えている順番と、真逆になっている。

これはかなり怖い話だなあと思いつつ、でも実際に自分自身の経験に照らしてみると、たしかにそうかもしれないとも思います。

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たとえば、誰かに冷たい言い方をされたとき、最初にあるのはたぶん「私」じゃない。

まず少しこわばってしまう身体(性)があって、胸のあたりがざわつき、そのあとでやっと思考が走り始めて、「あの人は私を軽んじているのかもしれない」「私は大事にされていないのかもしれない」「どうせ私なんて、いつもこうだ」と、最初はただの反応だったものに、少しずつ因果が脚色されていく。

点が結ばれて線になり、線が面になり、やがてひとつの物語になっていく。そして、その中心にいつのまにか「かわいそうな私」が生まれている。

つまり、「私」が物語を作っているというよりも、物語が動き始めることによって「私」という主体がなぜか自然と立ち上がってくる。

これが本当におもしろいし、同時にとても残酷なところだなあと思う。

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そして、これは「かわいそうな私」だけの話ではないんだろうなと思う。「できる私」も、たぶんまったく同じです。

「私は能力が高く、生産性が高く、ゆえにもっともっと評価されうる存在である」これもまた、世間的価値の中で立ち上がっている自我物語であって、AIはここに対して本当にややこしい立ち位置にいる。

AIは、「かわいそうな私」をより精密に語ってくれる一方で、「できる私」の足場も静かに崩していくわけです。

そのとき、人間はただ仕事を奪われる不安を感じているのではない。

その仕事や能力や評価によって支えられていた「私」の物語そのものが揺らいでいるわけであって、AI時代に誰もが感じている漠然とした不安の根源は、きっとこのあたりにあるはずです。

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で、話を仏教の視点に戻して、だから仏教は嫌われるんだろうなあと思います。

「あなたが苦しんでいるのではありません。苦しみのプロセスの結果として、『あなた』という物語が生まれているだけです」

そんなことを言われて、嬉しい人なんてほとんどいないですからね。「ウザっ、キモっ!」ってなるのは当然のことです。

仏教的に見れば、それは執着かもしれない。条件によって立ち上がった、一時的な物語にすぎないのかもしれない。

でもその人にとっては、それは長いあいだ握りしめてきた、最後の居場所でもある。そういう物語があるから、今日までなんとか生き延びてこられた、ということもある。

だから、それをいきなり解体されたら、救われるどころか、見捨てられたように感じてしまう。

正しいことを言われたからといって、人間が救われるわけではない。

むしろ、正しすぎる言葉ほど、人間を深く深く傷つけることがあるわけです。

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では、解体された「私」は、どこへむかうのか。

仏教は一度、「私」を解体するわけですよね。「私が苦しい」のではなく、苦しみが「私」を生む。「私ができる」のではなく、世間的価値の物語が「できる私」を生む。

でも、それだけでは人間は生きられない。「じゃあ、私は何なんですか」「全部が仮なら、どこに立てばいいんですか」となってしまう。

解体された先こそが、問題となる。

ここで僕は、少し前にご紹介した近内悠太さんの「ヒンメルならそうした」という言葉の解釈を巡る議論を思い出したくなります。


あの言葉は、本当に不思議で、普通、勇気というのは、自分の中からひねり出すものだと思われている。でも、「ヒンメルならそうした」の中にある勇気は、少し違う。

そこでは、「自分」が前面に出ていない。ただ、「あの人がここにいたら、きっとそうしただろう」と思う。

その瞬間に、自分の能力や判断を超えて、身体が先に動いてしまう。

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一方でAIは、僕らに「あなたならこうする」と語りかけてくる。

それはとても便利だし、本当に助かっている。でも同時に、それはどこかで「私の物語」を濃くしていく方向の働きでもある。

「ヒンメルならそうした」は、それとは逆だということです。「あなたならこうする」ではなく、「あの人なら、きっとそうしただろう」と問いかけてくる。

つまり、自分を濃くするのではなく、自分を一度薄くして、そのかわりに、自分の前にいた誰か、自分に何かを残してくれた誰か、その背中や身振りのほうに、自分をつなぎ直していくわけです。

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つまり、仏教が一度「私」を解体するのは、私を消すだけじゃないのかもしれない、と最近は思う。

「私の物語」に閉じ込められた私を、「私たちの物語」のほうへ開くため、そんなふうに読み直しせるのではないか。

孤立した私(という物語)から、受け取ってしまったものに、ただただ「応答する私」へと進ませてくれる。

私の解体から、もう一度再編成する過程が、ここに宿るわけです。

「私は苦しい」「私はできる」と立ち上がっていた私を、いったんほどいてみる。そのうえで、「あの人ならどうしただろう」「自分は何を受け取ってしまっていたのだろう」と問い直してみる。

すると、そこにもう一度、まったく別の新しい「私」が立ち上がってくる。

それは、かわいそうな私でも、できる私でもない。ただただ、呼びかけられて、応答してしまう私です。

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親鸞が語る浄土教の阿弥陀仏という存在も、たぶん同じ構造で読めるんじゃないかと思います。

阿弥陀の本願は「あなたならこうする」とは言わない。むしろ、「あなたはすでに呼びかけられている」というかたちで、いったん解体された私をもう一度、関係の中に立ち上げ直す存在なわけです。

自分で自分を救う私ではなく、自分の能力によって価値を獲得する私でもなく、ただ、「阿弥陀」から呼びかけられてしまった私、願われてしまった私、応答してしまう私。

まさに、自力から、他力へ。

その他力とは、先行する贈与に反応してしまう私、つまり「神様、仏様、ご先祖様」というのは、まさにこのことなんだ!と、個人的にはなんだかものすごく腑に落ちました。

ここで立ち上がる「私」は、AIが濃縮してくれる「私の物語」とは、ぜんぜん違う質感のものだと思います。

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今日の話を最後にまとめてみると、AIによって、世間虚仮はドンドン加速していく。

できることは増えるし、それと同じだけのスピードで、できることの金メッキも剥がれていく。

「かわいそうな私」も「できる私」も「もっと評価されるべき私」も、どれも世間の物語の中で立ち上がっていたんだと、少しずつ露わになっていく。それにはもう抗えない。

でも、だからといって、世間を軽蔑したいわけではない。

「ほら、世間なんてくだらないでしょう、そんな価値にしがみついている人間は浅いでしょう」と言いたいわけではまったくない。

むしろその逆で、人間は世間の中でしか生きられない。

世間の物語の中で傷つき、誇り、迷い、怒り、嫉妬し、喜び、そうやって「私」をつくっている。

だから「世間虚仮」という言葉は、世間を切り捨てる言葉ではなく、世間の物語の奥まで降りていくための言葉として読み直したい。

で、その奥にあるのは、孤立した「私」じゃない。呼びかけられて、応答してしまう私。

受け取ってしまったものに背中を押されてしまう私。でも同時に、その受け取ったものによって、踏み込みすぎない節度も与えられている私でもある。

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AIが「あなたならこうする」と言って、私の輪郭をどこまでも濃くして濃縮還元してくれる時代に、もしかすると僕らに本当に必要なのは、「あの人(神仏も含む)なら、どうしただろう」と問いかけること。

「私」というのは、誰かからの呼びかけの中で、先に受け取ってしまった贈与への応答の中で、もう一度少しだけ別のかたちで「私」を組み直すためにあるんだろうと思う。

私の解体から、呼びかけられる私の再構築。そしてそれを語ることができるのは、仏教を含めた宗教しかないということもよく分かる。

ここに現代社会における宗教の役割、その重要性が眠っているように思います。

いつもこのブログを読んでくださったみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。