他者と意見が異なるとき、なぜか僕らは、その根拠や理由、実際にこの意見を採用した際におきるメリットやデータばかりを相手に提示してしまいがち。

そうやって、お互いの意見の「正当性」をぶつけ合って、相手を納得させようとします。

でも僕は、それにはあまり意味がないと思っている。

意見が対立した際にお互いが本当に開示し合ったほうがいいのは、相手や自分が依拠する文脈や、その価値観が育まれてきた人生観(バックグラウンド)のほうなのかもしれない。

今日はそんな話です。

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そもそも人間の「知見」というのは、各人の置かれている社会的な地位や立場、暮らしてきた土地の歴史や文化にとても大きな影響を受けています。

それは、たまたま今住んでいる場所、たまたま今の働いている職場など、かなり偶然的な要素によって規定されてしまっている部分が大きい。

実際に、いま僕自身が日本全国さまざまな土地を渡り歩いて、少しずつその土地で暮らしてみる中で、興味関心軸が環境によって大きく変化していく体験してみて、改めて強く思うことです。

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しかし、多くの人にとっては、自分が見てきたものがすべてで、それが圧倒的な「普通」だから、他のひとも自分と同じような景色を見てきた前提で、全く異なる意見を述べているのだと誤解してしまう。

だからこそ「違う、そうじゃない!」と訂正したくなるのでしょう。

でも、そこをグッと堪えて、まずはお互いの依拠する文脈を丁寧に提示し合って、その裾野を広げていみる作業を試みる。

つまり、意見の不一致ばかりに着目するのではなく、「なぜそう考えるに至ったのか?」相手のバックグラウンドのほうに興味関心を持ち、それを丁寧に紐解いていくこと、そのほうが圧倒的に重要だと感じます。

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そもそも、なぜ僕らはすぐに「合意形成」をしたがるのでしょうか。

必ず何かしらの落とし所を見つけなければいけないと思い込んでいる、その根本的な原因は何なのか。

それはきっと、遥か昔、人間がまだ類人猿に近い時代のときに、目の前の相手との上下関係をしっかりと把握しなければ、生き残っていけなかったことに由来しているのではないでしょうか。

実際に猿山の猿は、今もそのように生きています。

だから、ある種の生存戦略として身につけた本能的なものなのでしょう。

だとすれば、先に理性のほうを働かせて、ただただ、相手との「違い」を認め合うだけでいいと、お互いに心を開いていく作業を優先する。

どちらかがマウントを取る必要もなければ、どちらかが相手に屈服する必要もない。

自らのバックグラウンドの中で得られた知見を提供し合って、相手からもその貴重な体験を提供してもらうほうがいいのだろうなあと。

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そもそも、多くの対話というのは、「落とし所」なんてものを見つける必要さえないはずなのです。

けれど、あまりに僕たちは議論に慣れすぎてしまっているがゆえに、勝手にそう信じ込んでしまっているだけで。

最初から、落とし所なんて見つけなくてもいいとまず割り切ってしまう。

でも、そうすることによって、お互いの落とし所も自然と見つかってくるから本当に不思議です。

これが、対話の持つ本来的なおもしろさなのだと僕は思います。

今日のお話がいつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても何かしらの参考となったら幸いです。