人それぞれに、自分が大切にしたい考え方や人生の指針となるようなキャッチフレーズのようなものってあるかと思います。

それは、未知と遭遇したときに頼りにする指針でもあり、常に立ちかえるような場所でもある。

人によっては、それを「座右の銘」と呼んでいたりもするでしょう。

過去の哲人たちの印象的なフレーズなんかも、きっとそうかもしれません。

たとえば、ニーチェなら「神は死んだ」、デカルトなら「我思う故に我あり」など。

私たちが先人たちの知恵を借りようとするときに、灯台となるような言葉でもある。

言い換えると、先人たちからの意志を受け継いでいくときのわかりやすいバトンのようなものとも言える。

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各人が大事にしたいと思うようなそんな行動原則、それが今の私たちにとって一番必要なものだと僕は思います。

わかりやすい社会的な「答え」や「正しさ」がなくなってしまった現代社会の中で、これを持つか持たないかが本当に大きな分岐点となってくる。

逆に言えば、このフレーズをひとりひとりが探し出して実践することが、本当の意味で「自分の人生を生きる」ということなのかもしれません。

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もちろん、それが哲学者たちのような小難しくて立派なフレーズである必要はないと思います。

私以外の他者を、同じ思想に巻き込む必要だってない。

あくまで、この私が私とだけ交わす約束のようなものです。

それは「ダサいことするな」のような単純明快なものでも一向に構わない。


ただ、これが自らの中に定まってくると、人生がガラッと変わってくるように思います。

そのためにこそ、他者や歴史から学び、常に考え続ける必要がある。

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何度も繰り返しますが、どの考え方が正しくて、どの考え方が間違っているという話ではありません。

もちろん、それに従い続けることで、勝つときもあれば負けるときもあるでしょう。嬉しいときもあれば悲しいときもある。

でも、この指針に従って忠実に行動し切ったときに、たとえその結果がどうであれ、私には悔いがないと思えるようなこと。

それはきっと、風通しがよく、他者からの反証可能性も残したまま、半分開かれたような価値観や考え方になっていくはずです。

だって絶対的な正解なんてこの世には存在せず、一生そのゴールには誰も辿りつけないのだから。

でも、そうやって自らで掲げた確固たる考え方がそれぞれに存在すれば、人間は他者に対しても寛容になれる気がします。

逆に言えば、ひとつの正義(らしく見えるもの)をみんなで実現しようとするから、人間はいくらでも他者に対して残酷になれてしまう。

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さて、自分は一体何を人生の指針にしたいのか。

より「善く生きる」ために。

そんなことを今夜のWasei Salonのオンラインイベントでも、みなさんと一緒にお話しできたらと思っています。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても何かしらの考えるきっかけとなったら幸いです。