マゾとサド、

大衆と独裁者、

労働者と資本家、

いじめられるひとと、いじめるひと、

これらのような対人関係は、一体どちらの立場が先に誕生したのでしょうか。

僕は、サドも独裁者も資本家もいじめる人も、本人の意志関係なく、すべてが構造の産物だと思っています。

今日は一風変わったそんなお話を、少しだけ考えてみたいと思います。

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たとえば、道端に石が転がっていたとします。

それを通りがかりの私が、何気なく蹴った。

このときに、私が石を蹴ったのか、それとも私が石に蹴らされたのか。

そのどちらとも判断が付かない状態って、誰もが幼いころに一度は経験があるかと思います。

この点、僕の地元である北海道の方言で、「ボタンがおささった」など、「〜ささる」という便利な方言があります。

上記の場合であれば、「石がけらさった」になる。

これは、一見するととても変な言葉です。自分で石を蹴っているはずなのに、「私の意志で、この石を蹴ったわけではない、自然とそうなってしまっていた」ことを主張しているのだから。

これはつまり、そういう「構造」にあったということなのだと思います。

この方言が生まれた由来はきっと、北海道をせっせと開拓している際に、北の大地の大自然の前では、人間の意志などは完全に無力であることを思い知った。

その結果として生まれてきた言葉なのだろうなと、僕は勝手に推測しています。

つまり、大自然の力(構造)よって導かれてしまい、勝手にそうなってしまったのだと。少なくともそこに人間の小賢しい意志が介在したわけではないと、私が主張したい時に使う言葉。

これは自然に対する完全な敗北宣言でもある。

それが転用されて、誰の意志のせいでもないと私が考えるときに、「〜ささる」という言葉が頻繁に使われるようになったのだろうなあと。

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さて、この話を今度は現代社会に置き換えて考えてみたいと思います。

今のように格差社会がドンドン広がってくると、ひとはなるべく自分が支配する側、管理する側など、なるべく優位な地位に立ちたいと願うようになります。

でも、それさえも、本当は「社会の構造」によってその地位に立たされているだけであるということなのでしょう。

マルクスの「疎外論」は、まさにそれを述べている。

「労働の疎外」という話は、労働者(プロレタリアート)が資本家(ブルジョワジー)から搾取されていると告発しているだけの話ではない。

それと同時に、資本家も労働者から"搾取せざるを得ない"構造の中に飲み込まれてしまっている、という主張でもある。

つまり、本人の意志関係なく「資本主義」というルール(構造)にしたがってしまうと、労働者、資本家ともに、好む好まざる関係なく、非人道的に振舞わざるを得なくなるのだと。

これを、北海道の方言に置き換えると、労働者も資本家も「疎外ささる」のです。

路上に住んでいる日雇い労働者も、タワマンに住んでいる資本家も、路上に住まわされていて、タワマンに住まわされてしまっている。

しかもそれは、人間の意志が介在してそうなったわけではない、まさに路上やタワマンに「住まさった」状態なのです。

みんなが、同じように優位な地位に立とうとするから、そこに一定の構造(力学)が生まれてきてしまうのだと。僕はそう解釈しています。

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もうひとつ、誰もが理解しやすい例として「いじめ」の話で考えてみたい。

学校のクラスなど、ある一定数の人間が集まる空間では、誰もが「いじめられたくない」と願うはずです。

だからこそ、自分がいじめられるぐらいなら、自分がいじめる側に回ろうとする。少なくとも、自分は無関係であろうと積極的に見て見ぬふりをして、いじめを無視するようになる。

この全員がいじめから逃れようとする力学、その行動原則に自然と導かれてしまうことで、結果的に必ず「いじめ」が発生してしまうのです。

誰か明確な悪者がいて「あいつをいじめてやりたい!」と強く願って、いじめが発生するわけじゃない。

みんなが、その標的になりたくないと必死で逃げるからこそ、必ず自然発生してしまうものなのです。

これも、北海道の方言に置き換えると、誰のせいでもなく見ず知らずの人間が一定数集えば必ず「いじめささる」のです。

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これは、残念ながら個人の道徳や倫理観で解決できるようなことではない。

もちろん、そのような善良な価値観が具体的な加害者と被害者を救済することにはつながることもあるだろうけれど、それは事後的な対処療法でしかない。

一方で、科学やメディア、テクノロジーが発展して、社会やその集団の力学がガラッと変わってしまえば、パタっとなくなってしまったりもする。

じゃあ私たちは、そのテクノロジーの発展を待つしかないのでしょうか。私たちは、それほどまでに無力なのでしょうか?

いや、違う。この構造やこの力学に対して自覚的になり、何が「おささってしまう」のかをちゃんと自分の頭で考えること。

その構造の発見と自覚こそが、道徳や倫理観を養うことと同じぐらい大事なことであり、その発見が新しい科学やテクノロジー、メディアを適切に社会に実装していくことにつながっていく。

僕はそう思っています。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。