先日もこのブログの中でご紹介した、哲学者・戸谷洋志さんの『スマートな悪』という書籍。
最近僕自身もぼんやりと考えていて、ゲームや推し活、新興宗教など、広義のコミュニティ系の活動が与えてくれる「もうひとつのわかりやすい世界像」の話が語られてありました。
これが非常に的確な説明の仕方だなあと感じます。
今日は、この戸谷さんの本で書かれていた「クリーンな現実B」の話について彼の説明を紹介しつつ、僕らはこのような世界認識と一体どのように向き合えば良いのか、少しこのブログの中でも考えてみたいなあと思います。
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では、早速本書から再び引用してみたいと思います。
現代のように混乱した世界や混沌で複雑な世界において、たくさんのジレンマを抱えた現代人の前に、ふいに現れる存在の話です。
以下、引用となります。
そこにたまたま強力な外部者が現れる。その外部者は、いくつかの仮説をわかりやすいセットメニューにして彼らに手渡してくれる。そこには必要なすべてのものが、こぎれいなパッケージになって揃っている。これまでの混乱した〈現実A〉は、様々な制約や付帯条件や矛盾を取り払った、より単純で「クリーン」な別の〈現実B〉に取り替えられる。そこでは選択肢の数は限られており、すべての質問には理路整然とした解答が用意されている。相対性は退けられ、絶対性がそれにとってかわる。その新しい現実において彼/彼女の果たす役割はきわめて明確に示され、なすべきことは細かい日程表として用意されている。努力は必要だが、その達成レベルは数字で計測され、図表にチャートされる
これは、ものすごくわかりやすい説明ですよね。
で、こういう話になると、そのような「クリーンな現実B」は幻想だからハマってはいけない、というお行儀の良い主張が一般的にはなされるのだと思うのだけれども、それにハマるなと語るほうが僕は正直、無理があるなと思う。
人間に不可能なことを実現しようと呼びかけてみても、仕方がないと思います。
つまり、理想論はそうだったとしても、それは三日三晩ごはんを食べていない腹を空かせているような状態で、目の前の色がるご馳走を食べるなと言っているようなもの。
それは幻想なんだだ、毒なんだ!と言ってみたところで、これだけ複雑で混沌とした世界においては、わかりやすい世界観の提示がなされれば、人間はそれに食らいついてしまう生き物です。
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戸谷さんは、作家・村上春樹の話なども紹介しながら、更に以下のように続けます。
村上の解釈はこうだ。私たちが生きている現実には様々な情報があり、混乱している。そこには多様な選択肢があるが、それらがあまりにも多様であるために、かえって私たちには何も選ぶことができない。現実の混乱と多様性は私たちにとって苦痛である。だからこそ、その苦痛を回避するために、私たちは分かりやすい「クリーン」な「現実B」を歓迎する。それは、もともとの現実に開かれていた多様な可能性を一挙に消去し、一つの道筋だけを提示する。それによって、私たちは可能性を失うのと引き換えに、混乱が解消され、苦痛も緩和される。そうした苦痛の緩和を望む欲求が、人間が自ら閉鎖性へと没入しようとする動機なのである。すなわち人間は、混乱した多様性に開かれているよりも、整然とした画一性に閉ざされていることを望む傾向にあるのだ。
これは、ぐうの音も出ないほどに、本当にそのとおりですよね。
だから、僕が現代社会が陥っているこの構造自体に対して、いまここで強く思うことは、「とはいえ、これはどこまでいっても、クリーンな現実Bなんだ!」という自覚を、参加者それぞれが持つことこそが、一番大事なのだと思うのです。
クリーンな現実Bに参加するな、ではなくです。
これは寝ている最中に観ている夢を夢だと認識しつつ、夢を夢として楽しむ感覚なんかにも近いのかもしれません。
夢なんだから、という理由でその瞬間に覚めなければいけない道理はないはずですよね。
繰り返しますが、人間が、甘美な世界を手放すわけがないんだから。むしろ、ダメだダメだと思えば思うほど、それに執着するに決まっている。
一方で、夢を夢だと思いつつも、それを夢として享受することは可能となる。
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たとえば、スポーツの熱狂なんかはわかりやすいですよね。
スポーツのルールの中において、敵と敵がぶつかり合っているけれど、それは競技時間内だけの話であるはずです。
でもそのスポーツにおいても、現実と虚構の区別がつかなくなると、それは度を超えてしまってフーリガンのようになってしまう。タイムアップの笛がなったら、僕らは夢からちゃんと覚めなければいけない。
もちろん演劇や映画なんかもそうです。物語というのは、その物語の中に存在する真善美を提示してくれているのだから、僕らはその提示されているものに無責任に感動してもいい。
その没入感を生み出してもらって、それを素直に味わうことこそが、エンタメの真髄です。
ただし、あまりにもそれに没入しすぎて、現実と完全に置き換えてしまった時点でアウトなのだと、ちゃんと理解しておくこと。
これは、以前もご紹介した養老孟司さんの「リアリティの翻訳は、真善美だ」というあの話にもつながってくると思います。
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逆に言うと、現代は、ゲームや推し活、宗教やコミュニティ内における虚構が、様々なテクノロジーの革新によって、現実Aに対してドンドン侵食し始めているとも言えそうです。
その境目が曖昧になってきていることも、非常に大きな原因なんだと思います。
わかりやすいのは「ゲーム内通貨」みたいなもので、それが現実でもシームレスに使えてしまうような世界線の提示が、誰でも簡単にできるようになってきている。
「単純でクリーンな現実B」は人間には不可欠であって、その神話のような物語を用いて人々は初めてまとまることができるのだけれども、どこまで言ってもそれは、現実Bであって、現実Aではないという自覚。
宗教であり、フィクションなんだという自覚を絶対に忘れないこと。
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これは本当に、何事においてもそうだと思います。どれだけそれが、既に社会のコンセンサスで真実みがありそうなことであってもそう。
たとえば、「人間は生まれながらにして等しく平等に人権がある」という論理なんかもわかりやすい例かもしれません。
社会契約説のようなフィクションが通説であって、いまさらそれを否定する人もいないものであったとしても、人間がつくり出した以上は、必ずそこには宗教と同じく物語が内在している。
これをクリーンな現実Bこそが世界の現実であり、世界の真理なのだとして完全に受け入れてしまうと、それがどれだけ人権のように正義感が溢れることであったとしても、かなりヤバい方向に向かってしまう。
むしろ、それこそが一番、ナチスドイツのような過ちを犯すことにつながるんじゃないかと僕は思います。
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この点、先日のクローズアップ現代のインタビューの中で作家の佐藤優さんが「現代は、他者の内在的論理を理解することが大切だ」というお話を語られていました。
これは、僕も本当にそう思います。
ちなみに、相手がどのような論理や倫理のもとで駆動しているのかを相手の目線から理解しようと努めることが、それが内在的論理の把握です。
つまり、ロシアや中国など、具体的にはプーチンや習近平など、彼らのかけている眼鏡から世界を眺めたときに、どうして西側諸国が悪に見えるのか、という話を理解しようとすることでもあります。
そしてさらに、それを理解しようとしたときに、自分たちも同様に内在的論理で駆動していることにハッとすること、それがめちゃくちゃ重要なことだなあと。
わかりやすい話に喩えると、ボケ老人とかを見て「可哀想だな…」と思うことじゃないんですよね。
トランプのことを支持している白人層とかを見て「哀れだな…」と思うことでもない。
そうじゃなくて、その老人や白人こそが、自分自身の姿なんだと思えるかどうか。
つまり、自分もまったく同じ「内在的論理X」に無意識に陥っている存在なんだと、思えるかどうかだと思うのです。ここがめちゃくちゃ重要な観点だなあと。
人の振り見て我が振り直せ、じゃないですが、そこに気づくために僕らは他者の内在的論理、つまり彼らが一体どのような「クリーンな現実B」を見ているのかを必死で理解する必要があるのだと思います。
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これからは、ますますクリーンな現実Bを提示してくれるゲームや推し活のコミュニティが、世間に対して本当に文字通り、無限に供給され続けると思います。
それに自ら進んで参加してもいいし、その世界観の拡大において加担もしてもいいから、どこかで常に疑っていましょう、それが今日の僕のここでの提案です。
それは、ときにコミュニティ内からしたら本当に嫌なヤツで、冷めているヤツなんだけれども、それが本当に大切な気がしています。
もちろん、このWasei Salonのような空間においてもそうです。
自分たちは「はたらく」を問い続けるとか言いながら、いつも非現実的な話ばかりしていて、何も現実を見ていないという視点は、この場に積極的に参加しつつも、常に同時に常に持ち合わせていた方がいい視点だと思います。
他者に敬意を示して、親切丁寧に接することと、自らが常に疑い続けているということはきっと成立する。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。