「知識を知識のまま蓄えてもダメで、実践して初めて血肉化する」
多くのひとが、幼いころから至るところで聞かされてきた言葉だと思います。
陽明学の「知行合一」の考え方にも近いです。
この言葉が意味するところが、最近やっと少しずつ理解できるようになってきました。
今日はそんな気付きを少しだけ書いてみたいと思います。
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思うに、知識を実践することによって初めて、自分の内側から立ち現れてくる自己が存在する。
この内なる自己と出会えたときに、やっと習得できた(血肉化できた)状態だといえるのでしょう。
それはつまり、自分がもうそれ以前の自分ではなくなってしまっている状態でもあります。
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この点、どうしても僕らはスマホに何か新しいアプリをインストールしたり、データファイルをダウンロードしたりするかのように、自己の成長を捉えてしまいがちです。
つまり、自分自身をスマホのように決して変わらない固定化された存在(ハード)であると認識し、情報を流動的な存在(ソフト)であるかのように捉えてしまう傾向がある。
だから、固定化された自己の中に、情報や知識をドンドン蓄えていくことが「成長」だと勘違いしてしまうのでしょう。
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しかし、実態はその逆なのです、きっと。
流動的なのは自己のほうで、固定化されているのが知識や情報のほう。
私という存在自体は、その固定化された情報や知識を実践することで初めて変性可能で(いや日々変性せざるを得なくて)
その実践を通して「なるほど、そういうことだったのか!」と感じた瞬間、内側から立ち現れてくる自己と出会える。
その経験を通して、もう以前の私とは全く異なる存在に変化してしまう、それが本来の成長なのです。
あくまで知識や情報は、その状態に辿り着くための手段や過程に過ぎず、プログラムやコマンドのようなものでしかない。
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そう考えると、導いてくれる先生や師の存在も、非常に重要になってくることがよくわかる。
往々にして、良薬は口に苦しです。
いや、苦ければまだ判別可能ですが、それ以上に無味無臭で実体がなく、最初から無駄や無意味だと判別されてしまうことも多く、吟味されることさえありません。
なぜならソレは明確に自己の中に蓄積していくものばかりではないからです。
座禅や瞑想などは、その最たる例。
こんなにも刺激がない刺激的なことなんてありません。実践しているうちに、あっという間に自己を変性させてしまいます。
その実践を促してくれるのは、その方法で自己も変性した経験がある師(先人たち)しかいない。
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成長とは、外から与えられて付加・蓄積されていくことではなく、その実践した先に内側から立ち現れてくる新たな自己と出会うこと。
まさに「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」です。
ものすごく抽象的で、感覚的な話ではありますが、少しでもみなさんの何かしらの気付きや発見につながれば幸いです。
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2021/08/05 10:32