昨日このブログで「AIは役に立つ、でも僕らはAIの役に立つことはできない。」という記事を書きました。

https://wasei.salon/blogs/bc27835dd3a6

その最後に、僕は以下のようなことを書きました。

「見返りが返ってくることを目的にした瞬間に、贈与の循環はフッと消えてしまう。見返りはいつも、事後的にしか発見できないからだ」と。

そうしたら、そのブログを公開した翌日に、その「事後的な見返り」が、本当に届いてしまいました。

「赤毛のアン」シリーズの愛読者である、よもぎさんという方が、昨日の記事をSubstack上でリスタックして、こんな素晴らしいノートを書いてくださったです。


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Wasei Salonのなかで『赤毛のアン』の読書会を開く→その感想をブログに書く→それが、会ったこともない、アンを何度も読み返してきた愛読者の方のもとに届く→そして、コメントというかたちで僕のところに返ってくる。

この循環は、狙って起こせるものでもないよなあと思います。

むしろ、狙った瞬間に煙のように消え去ってしまう種類のもの。

だからこそ、こういう予期せぬ循環が生まれたときは、本当にしみじみとありがたいし、嬉しいなあと思ってしまいます。

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で、ここからが今日の本題です。

よもぎさんのノートを読んで、いちばんハッとさせられたのは、マシューがアンのとめどなく溢れるおしゃべりを、ただただ聞いていたこと、それ自体が、アンにいちばん必要なものだった、という指摘でした。

マシューが意識せずにやっていたことが、相手にとっていちばんの果実だった、と。

このお話は、本当に、そのとおりだと思います。

孤児だったアンは、愛情に飢えていた。でも、それ以上に飢えていたのは、自分の空想やおしゃべりや喜怒哀楽なんかを「くだらないものとして処理されないこと」だったのだと思うのです。

だとすれば、マシューのあの沈黙は、決して無関心の沈黙ではなく、ものすごく深い敬意のある沈黙だったのだと思います。

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そこで思い出したのが、内田樹さんの言葉を引用しながら書いた以下の記事です。


内容としては、人は愛情ではなく、自分が「しみじみと感心されている」という敬意に反応するというお話です。

愛情は、どうしても相手を選んでしまいます。でも敬意は、相手を好きかどうかとは別に、誰に対しても平等に差し出すことができる。

いわゆるテンプレートのように描かれるイタリア人男性のように、愛を雄弁に語ることのできないマシューにも、アンを「語るに値するひと」として扱うことだけは、できたわけですよね。

そして、アンが反応したのも、まさにこのマシューからの敬意だったのだろうなあと。

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そのうえで「流行のパフスリーブの洋服を、マシューがアンのために仕立ててあげる」というあの話にも見事につながるなあと。

物語のなかでマシューは、アンの服の袖が、ほかの女の子たちと違うことに、自分自身で気がつきます。そして、自分のお金でそれを仕立ててあげたいと思い立つ。

でも、よくよく考えてみると、気づけたこと自体が、日頃から黙ってしみじみとアンを見て、話を聞いていた証拠なんですよね。

だからあの服は、聞くこととは別の、二つ目の贈り物ではないのだと思います。

一つ目の贈与としての「黙って聞き続けること」が、はじめて目に見える物のかたちを取った瞬間なのだと思います。

「あなたがずっと話していたことを、私はちゃんと聞いていましたよ」という、物質による無言のお返事です。

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で、これが、もし順序が逆だったら、と想像してみると、さらにおもしろいと思います。

たとえば、ろくに話も聞いていない大人から、パフスリーブの服だけがポンと届いてしまったら、それは単なるご機嫌取りか、強者から弱者への施しにしかならないと思います。

昨日の記事の言葉を用いるなら、その瞬間に「素敵なプレゼント」も「契約の束」の側にスルッと滑り落ちてしまう。

かといって、聞くだけで何ひとつ「物」として形にならなかったら、今度はアンの側に「本当に届いていたのだろうか」という寂しさが、静かに積もっていったはずです。

つまり「物としての贈り物」は、目に見えない敬意の先行する贈与に対して、「かたち」と日付を与えてくれるわけですよね。そして、アンはパフスリーブの服に袖を通すたびに、そのことを思い出すことができるわけですから。

後者だけでもきっとダメで、前者だけだとなんだか物悲しいし、物寂しい。

そう考えると、人間の贈与の習慣というのは、本当によくできているなあと深く感心させられます。

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昨日の記事内で、僕は、マリラの「あの子がいったい何の役に立つというの?」という問いに対する、マシューの「いや、わしらがあの子の役に立てるかもしれないよ」という一言の反転に、この物語のすべてが詰まっている、と書きました。

先に無条件に受け取ってもらえたからこそ、アンは外の世界に向かって与えはじめることができた。受け取ることが先で、アンの贈与はそのあと、という順序の話です。

で、さらに今日気づいたのは、その同じ順序が、マシューひとりの贈与のなかにも、そっくりそのまま入れ子構造になっていた、という発見でした。

まず、黙って聞く(受け取る)ことが先。

パフスリーブのプレゼント(形にして返すこと)は、そのあと。

このように、贈与というのは、どの縮尺で眺めても、同じかたちをしているのかもしれません。「先に受け取る。あとで、形にする。」というように。

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あと、冒頭でご紹介したよもぎさんのノートは、こんな追伸で終わっていました。

「(リスタック元とは関係ない話に着地してしまっています)」


でも僕は、このズレこそが、なんだかいちばん嬉しなあと思ったんです。

同じ形のまま返ってくるのは、交換か、ただのオウム返し。それが嬉しい時ももちろんあります。

ただ、文章が誰かに届くというのは、書き手と同じ場所に立ってもらうことではなくて、そこを出発点に、書き手の知らない場所まで、ご自身の足で歩いていってもらうことなのだと思います。

よもぎさんのズレの向こう側には、アンシリーズを何度も読み返してきた歳月や、子どもの頃には想像もしなかった「マリラに感情移入して泣く」ようになるまでの時間が、しっかりと透けて見えますし、ちゃんと僕のブログを受け取ったうえで、それを想起してくれたこともしっかりと伝わってくる。

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で、考えてみれば、Wasei Salonで日々開催している読書会というのも、そういう場所になっているなと思います。

全員で「正しい読み方」を確認して、ひとつの結論にたどり着くための場では決してない。

それよりも、誰かの何気ない発言を聞いて、別の誰かがまったく違う自分の記憶を思い出す。

そうやって、話しているうちに、最初のテーマから少しずつ離れていくことが多いんですよね。それを脱線と呼ぶこともできるのだけれど、その脱線こそ、言葉が誰かのなかでちゃんと動いた証拠でもあるわけです。

今回だって、読書会で交わされた言葉が、ブログになって少し変わり、よもぎさんのコメントで、さらに別のものになりました。

伝言ゲームとして見れば、ずいぶん不正確なんですが、でも、贈与の循環として見れば、これ以上ないくらいに豊かだなあと感じてしまいます。

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それに、そもそも『赤毛のアン』という作品そのものが、この「ズレた配達」から始まるのでした。これはAIにブログの下書きを見せたときに言われたことで、ほんとうにハッとしたことのひとつです。

確かに、注文したのは、畑仕事を手伝ってくれる男の子だったはずなんですよね。

でも、伝言ゲームの手違いで、マシューのもとに届いたのは、空想好きのおしゃべりな女の子。

マリラはその「誤配」をなんとかもとの持ち主のところに送り返そうとしますが、マシューはそれを受け取りたいと願った。

つまり、アンという主人公そのものが、宛先からズレて届いた「贈りもの」だったわけです。

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そう思い返すと、マシューの「聞く」もまた、最初からズレを許す聞き方でした。

アンの話はしばしば脱線して、空想が膨らんで、マシューの予想もしない場所へ飛んでいってしまう。でも、マシューはそれを正しい方向へ導き直したり、自分に理解できる範囲へ無理に回収したりはしません。

このように、相手の話を敬意を持って聞くというのは、内容を正確に理解することだけではなくて、相手の言葉が、自分の想定からズレていくことを許すことでもあるのでしょうね。

だから、ズレは、誤読の証拠ではなく、受領の証拠であり、言葉が相手のなかで本当の意味で動いた、その痕跡なのだと思います。

もちろん「少しずつ」というのが肝であって、全部ズレてしまったら、それはただの独り言です。「もっとちゃんと読めよ!」と周囲も不快になってしまう。

最後まで読み(聞き)、深く受け取ったうえで、少しズレる。そうやって少しずつズレていくことこそが、理想的なのだと思います。

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有限で、顔のある他人とのあいだでは、事後の見返りが本当に届いてしまう。

AIとのやり取りにおいて、この感覚を得ることはほんとうにむずかしいです。本当の意味で、受け取り合う器になれるのは、人間だけなんだろうなと、こんな実体験を通して、最近しみじみ思います。

そして、今日語ってきたように、贈与の循環というのは、正確にはキレイな「円」ではないということなんでしょうね。

同じ場所に正確に戻ってくるのは交換であって、少しずつズレながら回っていくのが、贈与。つまり、螺旋のような円環構造。

だとすれば、次回の読書会の課題本が『ムーミン』という、まったく別の谷のお話であり、別のコミュニティの話であることもまた、このズレや螺旋の必然の結果なのかもしれないなあとさえ思っています。

次の読書会で僕らは、いったいどこに着地するのか、それが今から本当に楽しみです。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていれば幸いです。