柳宗悦の民藝に関する本は「暮らし」の文脈ではなく、「宗教」の文脈で読まないと正しく理解できないという話を以前書きました。

https://wasei.salon/blogs/254df07786a6

今日はなぜそう思ったのか、その理由について詳しく書いてみたいと思います。

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まず、大前提として僕自身が民藝"品"ではなく、民藝運動や思想のほうに興味があるからだと思います。

柳の思想や運動にフォーカスして読めば読むほど、その思想が生まれるまでの過程が、鎌倉時代の親鸞の思想(悪人正機説)にそっくり。

そうしたら、『工芸の道』という本のなかで、柳宗悦本人も、以下のように語っていました。

ー引用開始ー

私はあの『 歎異抄』に書かれた親鸞上人の言葉を感慨深く想い起す。「善人なおもて往来をとぐ、 況んや悪人をや」と。心霊の世界における驚くべき秘義について、これまでに深く見破った言葉は世にも稀であろう。

私は宗教におけるこの秘義を、工藝においても深く体験する。私が費した多くの言葉もついにこの一句に尽きる。もしこの世に工藝の聖典があるなら、この言葉によってこそ書き起されているであろう。

ー引用終了ー

じゃあ、この「宗教的」とは一体どういうことなのか。

それはつまるところ、「庶民のなんてことない生活の絶対的な肯定と救済」なのだと思います。

その時代における社会の主流の価値観とはまったく異なる価値観を提示して、庶民を救済・肯定・勇気づけすることが宗教の本来の役割。

ここでいう庶民とは、時代の流れの中で虐げられるひとたちのことを指します。

親鸞の時代には、その庶民が猟師や商人など「悪人」とされてきた人々であり、柳宗悦の時代には、西欧化、近代化する中で「手仕事」をしてきた人々のことです。

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彼ら庶民は、時代の流れに左右されないからこそ、そこに作為や恣意的な感情は一切存在せず、自然に沿って行われる人間の純粋無垢な営みを行なっている。

そんな健気なものを肯定したい一心だったのではないでしょうか。その一心から彼らの思想が生まれた。

人間社会の中では必ず、庶民は時の権力者たちに軽んじられ、虐げられていくのが世の常ですから。

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そして、親鸞や柳宗悦が、西洋の哲学者や思想家とは異なり、僕が心底すごいなあと思うのは、

「従来の固定観念からの解脱」をはかったこと。

西洋の思想家や運動家は基本的に、社会の固定観念(価値観)はそのままに、革命を呼びかけるやり方というのが一般的だと思います。

たとえば、マルクスは「労働の疎外」や「唯物史観」などを主張しつつも、資本家と労働者の立場の理解はそのままに、労働者の団結を促して革命を起こすように呼び掛けましたよね。

しかし、親鸞や柳宗悦は、そうじゃない。

「悪人こそが救われる。=悪人正機説。」

「下手物こそが美しい。=用の美。」

そうやって、当時の固定観念を完全にひっくり返してしまった。

そして、その根拠を「自然」に求めた。

自然と繋がるための具体的な方法が、阿弥陀仏であり手仕事だったわけです。

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きっと現代でも、似たような思想はつくり出せるはずだと僕は思います。

具体的には、現代に生きる「民藝的なひとたち」の営みを肯定するための思想。

しかし、そのためのよりしろはもう「阿弥陀の本願」でも「民衆的工芸品」でもないはずです。(そこに現代人は共感しない)

でも必ず、親鸞と柳宗悦が行ったことは、現代にも置き換えられる。

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「国破れて山河あり」という言葉があるように、

今まさに日本という国家が破れていきそうなタイミングで、日本列島の山河(自然の摂理)に身を委ねて生きているひとたちを救済、肯定する考え方が必ず存在するはず。

それが一体何なのかを最近ずっと考えています。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。