一般的に対立とは、合理的整合性優位のひとと、美的調和感覚優位のひとの意見の相違から起こることが多いです。

そして、これは自己の中の葛藤であっても、全く同じこと。

ひとりの人間の中にどちらの感覚も存在するからこそ、対立する2つの意見に悩み、葛藤してしまうわけです。

ではどうすれば、この対立や葛藤に正しく対処することができるのか。

今日はそんなお話を少しだけ書いてみたいと思います。

ーーー

この点、日本は古くから美的調和感覚のほうを優先してきました。「和を以て貴しとなす」という言葉は、それを象徴していると思います。

一方、時代が進み、近代化、西欧化で奨励されてきたことで、合理的整合性のほうを優先していくことになった。

グローバル化する中でコンテキストを共有しない民族、部族同士の間でも、お互いに納得できる落としどころを見つけるためは、合理的整合性をもとに議論を進める必要があるから。

ダイバーシティ(多様化)というのは、合理的整合性があって初めてなせる技です。

ーーー

これらは、どちらが優れているという話ではなく、どちらも生きる上では絶対に必要なもの。

人類が生存する上で「文明と文化」どちらも必要であるという話にも近いです。

両方の価値観を、各人が自己の中に持ち合わせる必要があるわけですよね。

ただし、その発露する場所は選ばないといけない。

合理的整合性優位の環境で、説得力のある言葉を持たない美的調和感覚は完全に無力です。簡単に論破されて終了。

一方で、美的調和感覚優位の環境で、どれだけ説得力のある論説も役には立ちません。そんなことよりも、目の前の景色や空間を全身で感じろと諭されてお終い。百聞は一見にしかず、です。

ーーー

では、今の時代はどんな空間や場所が多いのかと言えば、間違いなく合理的整合性が多い時代なのだと思います。

コンピューター上で「情報」としてやり取りできるものの多くが、合理的整合性で判断できるものだから。

でも、上述したようにどちらも生きるうえで大切なことは間違いない。

どちらかを疎かにした途端、何か大事なものを忘れていると直感的に感じとってしまうのが人間です。

無理矢理どちらかの感性を自分の中で閉じてみたとしても、自分の本性や理性はそれを完全に見抜いてしまうことでしょう。

その結果、心身に支障をきたし、いつかアラートが鳴ってしまう。

ーーー

つまり、僕らが唯一できることは、今の自分にどちらの要素が足りないのか、それを客観的に観察し続けて、補い続けることです。

必ず、どちらの要素も必要になるのだから。

そして、そのバランスを保つための方法を、自分なりにトライアンドエラーを重ねながら、適切な在り方を探っていくこと。

このバランスは完全に十人十色。5:5が丁度いいひともいれば、1:9が丁度いいというひともいるでしょう。

ーーー

僕の場合、常時ネットに繋がっていられるようになったことにより、どこに居たって合理的整合性の感覚は自分の中で想起できるようになりました。

だからこそ、身体は美的調和感覚を全身で味わえる場にできるだけ身を置いたほうがいいと思っています。

具体的には、時代を超えて多くの先人たちに愛されてきた歴史的な空間や、幾多の時代の荒波に揉まれながらもずっとそこに残ってきた自然に、積極的に足を運びたい。

ーーー

もちろん、全く逆のひともいるでしょう。

アートや音楽が得意で、簡易的な道具さえあれば、いつでも美的調和感覚は自分の中で想起できるから、身体は東京(都会)に置いておくというような。

大切なことは、自分にとって合理的整合性と美的調和感覚のセンサーをどちらも正常に働かせること。

そのためには、どのようなライフスタイルが自分に合っているのかを、さまざまチャレンジしながら考え続けることが重要なのだと思います。

そして昨今は、暮らし方も働き方も一気にバリエーションが増してきて、ものすごく柔軟に対応できるようになった。

改めて考え直してみるには、絶好のチャンスだと思います。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が、何かしらの参考となったら幸いです。