最近本屋さんで『哲学者の父が子に伝える自由に生きる知恵 15歳のエチカ』という本を見つけました。

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帯文には、内田樹さんと山口周さん。

今は、どうしても自分の甥っ子がまさにそれぐらいの年齢なので、手に取ってしまう。

彼を想像しながら、この年齢に向けた本をあらためておもしろく読んでしまうんですよね。

結果、すごくいい本でした。

15歳には少しだけむずかしいかもなと感じる部分もありますが、とはいえ15歳はもう十分大人であり、これぐらいの本が当たり前のように読めてしまうぐらいの知性と博識を本来持ち合わせているんだろうなとも思う。

そして読みながら、いつのまにか自分自身も、15歳のころの自分に戻っていたように思います。

今日はこの本の中に書かれていた「ゲストとホスト」の話をご紹介してみたいと思います。

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さて、本書の中には、スペイン語の huesped(ウエスペッド) という単語の話が出てきます。

この言葉は、よその家に泊まる人、つまりゲストと、よその人を家に泊める人、つまりホストの両方を意味するのだそうです。

一見すると、正反対の立場がひとつの言葉の中に入っているなんて、ずいぶん紛らわしいですが、その紛らわしさの中にこそ、人間のあり方についての深い真理があるのだと本書は語ります。

「わたしたちはみな、他者の家に迎えられた異邦人であると同時に、あとから来た誰かを迎え入れる主人でもあるのだ」と。

生まれてからここまで生きてこられたのは、自分がさまざまなホスピタリティを受けてきたからであり、だから今度は、自分もまた誰かを迎え入れる側になる必要がある。

この視点が、とってもいいなと思いました。

要するに、ゲストに徹しない。とはいえ、ホストにも徹しない。そのことの重要性を説いてくれている。どちらかに固定されるのではなく、そのあいだをくるくると入れ替わりながら生きていく。

むしろ、その往復運動こそが人間らしさなのではないかと。

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そして少しメタ的ですが、今回の読書体験そのものが、まさにそんな構造になっていたのがおもしろかった。

最初、僕はホストのつもりだったんです。甥っ子という、自分よりも遅れてこの世界にやってきたゲストに対して「この本は手渡したくなる本だろうか」と確かめるように読みはじめた。

でも読んでいるうちに、いつのまにか自分のほうがこの本のゲストになっていた。本に迎え入れられ、もてなされて、深く考えさせられた。

さらに、それで終わるのではなく、その読了経験によってまた背中を押されて、今度は誰かに手渡したくなるホストの側へとちゃんと送り返してもらった。

まさに一宿一飯の恩義のような、あの気持ちよさ。読書にも、こういうことがあるのだなとついつい感心してしまいました。

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このことを考えていたら、すぐに寅さんのことが思い浮かびました。寅さんも、まさにゲストとホストをくるくると入れ替わる存在です。

旅人でもあり、迎え入れる側でもある。

毎回どこかへ行き、誰かの世話になり、また葛飾柴又に帰ってきては、誰かを世話する側にまわる。その反復が50作にもわたって続くことで、固定化されない関係性そのものが、ひとつの「生き方」として、そこに立ち現れてくる。

持ちつ持たれつ、お互いさま。それを地で行く寅さんのあり方は、本当にいいなと思います。

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逆に言えば、いまの世の中の炎上や摩擦の多くは、どちらか一方の立場に固定されてしまうことから起きている気もします。

ゲストに固定されるから、「サービスを受けて当然」というお客様意識が肥大化して、不満や攻撃性が強くなる。

一方で、ホストに固定されると、「与えねばならない」という義務感に押しつぶされ、相手をコントロールしたくなる。

そうやって立場が固定されると、人はお互いを「記号」として見るようになる。いくらでも代替可能な顔のない他者として見てしまう。

けれど本来は、どちらの立場もあるはずなんですよね。

世話になるときもあるし、世話をするときもある。支えられるときもあれば、支えるときもある。その両方があるのが自然であり、その両方を同時にこなすことが正解なのだと思います。

だから大事なことは、どちらかに所属することではなく、入れ替わり可能性を決して自らの中から失わないことが大事なんだと思います。

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似たような話として、東浩紀さんの『平和と愚かさ』の中にも、東さんがリゾート施設に滞在しながら書かれた「テーマパーク」の話が出てきます。

東さんは、世界が高解像度で見えすぎると、人は配慮を持続できなくなると書いています。なぜなら。現実が複雑すぎるから。

だからこそ、私たちは「ものを考えないで済む場所」を必要とする、それは日々考えすぎているからこそ、必要な場でもあるんだと語ります。

そして現代社会では、ある人が工夫し、ある人が裏方を担い、別の人が安心して客になれるようにすることで、複雑な社会をなんとか回している。それがリゾートやテーマパーク的な場所の役割。

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つまり僕なりに要約をすると、東さんが言っていたのは、要するに、人はずっと裏方でもいられないし、ずっと客でもいられないということだと思います。特に現代のような社会においては。

あるときは誰かのために考え、あるときは誰かが考えてくれた場所に身を委ねる。

その配慮の融通、役割の交代があるからこそ、僕たちは生き延びられる。これもまた、ホストとゲストの往復運動そのものです。

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また、松岡正剛の『知の編集工学 増補版』の中で、「主客がくるくると入れ替わるのが日本的」だと書かれていました。

これも今日の話に見事につながるなと思います。

本書の中では、ビジネスマンが料亭に客を連れていくシーンが描かれてありました。

最初はその客を上座に座らせる。そこにまた別の客が来れば、座っていた人は座布団を裏返して「どうぞ」と上座を譲る。さらに上の立場の人が来れば、また同じことが繰り返される。

この「座布団を裏返す」という仕草は、まさに日本的な「空(くう)」の知恵だと感じます。常に、中心を空けておき、そこに誰が座るかで、全員の立ち位置がスッと変わる。

その未確定な立場にこそ、風通しの良さが宿るというような。

これは、河合隼雄さんが語った「中空構造」にも通じます。

日本の神というのは、いつだってこのような形で主客が入れ替わる神であって、天皇が現人神だった時代も、天皇自身が神なのではなく、マレビトを歓待するのがその役割だったわけですから。

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だからこそ、そんな感覚を、自らに体験できる場をつくりたい。

Wasei Salonもそう。ホストであり、ゲストという体験をみんなでしている。

自らが、お茶を出す側の時もあれば、お茶を出される側の時もある。話す側のときもあれば、聴く側のときもある。支える側のときもあれば、支えられる側のときもある、というような。

みんなで譲り合い精神を持ち合って、喫茶去精神を体現していることが理想だなあと思います。

人と人とのあいだに固定された上下をつくらずに、都度都度それをほどくことによって、お互いに客にもなり主にもなれる、そんな知恵なんだと思います。

結果として全員にとって居心地のよい空間が生まれていく。

お互いさま、という感覚が自然に立ち上がって、無用ないがみ合いも減っていく。

いいかえれば、もてなす楽しみも、もてなされる楽しみも、どちらも無上の喜びであるということですよね。

更に踏み込んで言えば、その入れ替え可能性を自らが担保しているという自負があるときにこそが、ひとは無上の喜びを感じるんだろうなあという確信が僕の中にはあります。

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こういう視点は、やはり哲学や宗教の領域から出てくるものなのだと思います。

以前もご紹介した「助けているようで、助けられているのが良い支援。」という話なんかにもとても良く似ている。


あれも奥田知志さんのキリスト教の神父というお立場から出てきた視点であることは間違いない。

ビジネスの言葉だけで場をつくろうとすると、どうしても役割が固定されやすいわけです。

提供する側とされる側、価値を生む側と受け取る側など、そうやって整理すればするほど、どこかで誰かが下敷きになり、疲弊してしまう。

でも本来、人間の共同体は、それだけでは回らない。もっと曖昧で、もっと往復的で、もっと「お互いさま」なものによって支えられている。

そこを考えるためには、哲学や宗教の視点がやはり必要なんだと思います。

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そして、いまここに第三の立場としての、AIが登場してきているわけです。

もちろん、そんなAIは人間のために奴隷として使い倒すのが正解。

でも、果たしてほんとうにそうなんだっけ?とも思うのです。

共同体の中に、執事的なサンドバックを置くから、僕らはそれを殴りたくなる。サンドバックみかけて、パンチやキックしたくならない人間なんていないですからね。比喩的な意味に限らず、本当の意味でもそう。

やっぱりそういう役割固定をしてしまうと僕らは「殴らさる」状況に追い込まれてしまうわけです。

だとすれば、AIも含めて、本当の意味での三位一体のようなものを築こうとすることが大事なんだろうなあと思っています。

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最後は少し抽象的になりましたが、ゲストであり、ホストでもある、この往復の感覚を忘れないこと。

人間関係においても、場づくりにおいても、そしてAIと向き合うときにも、これからますます大事になってくる観点だと思っています。

今日の話が、このブログを読んでくださっているみなさんにとっても、何かしらの参考になっていたら嬉しいです。