先日もご紹介した、村上春樹さんと川上未映子さんの対談本『みみずくは黄昏に飛びたつ』をいま読み進めています。

この本は、今の僕のタイミングだと、本当におもしろい。

村上春樹さんと河合隼雄さんとの対談本と違って、ある程度、村上春樹作品を読んだことがないと何の話をしているのかさっぱり理解できない内容であるとは思うのだけれども、既に村上春樹作品をたくさん読んだことがある方には、たまらない1冊だなあと思います。

特に『騎士団長殺し』を読んだ方には、ぜひともオススメしたい1冊です。

今回は、この本の中で村上春樹さんご自身が「なぜ36歳の主人公が多いのか?」について言及してくれている部分があり、そちらをご紹介してみたいと思っています。

先日僕も、このブログの中で「36歳は巡礼の年」という記事を書いたけれども、ご本人が直接言及している部分をご紹介しながら、新たに得られた気づきや発見を、この場に備忘録的に書き残しておきたいなあと思います。

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さて、それでは早速本書から少しだけ引用してみたいと思います。

川上    おそらく村上さんの考える三十六歳の実感みたいなものが、村上さんにとっては、一番何かを入れやすいものなのかな。 
村上    語りやすいんです。そういう目で世界を見て語るのが、僕にとってはわりに自然な感じがする。
(中略)
僕が主人公として書きたいのは、基本的には普通の人なんです。通常の生活感覚を持った人。しかもいろんな意味あいで、まだ自由な立場にある人。誰しもある程度の年齢になってくると、いろいろ現実がつきまとってくるでしょう。でも、三十代半ばぐらいだと、まだ中間にいますよね。 
まだ人生の中間地帯に留まっている。たぶん物語にとっての「水先案内人」みたいな人を、僕は主人公として必要としてるんだと思うんです。それが五十代、六十代になると、いろいろと人生のしがらみみたいなものがくっついてくるから、どうしても動きが遅くなってしまう。


今ちょうど36歳の自分にとって、ここで語られているお話は心底腑に落ちる話。

自分自身が、実際にその年齢になってみて初めてわかる感覚が、驚くほどあるなと実感しています。

30代半ばという年齢は、もう間違いなく 20代の頃みたいに、すべてを勢いにまかせて行動できるようなタイミングではない。

世の中を俯瞰的に眺める力が嫌でも身についてきているタイミングでもあって、その分、手枷足枷みたいなものも一気に増えてくる。

それは、知識面においても、実体験の面においてもどちらの側面からもそうです。

でも一方で、まだそのようなしがらみに、完全に支配されるような立場でもない。自由な側面も山ほどあるんですよね。

特に僕のように、家族や子どもがいなければ、より一層、そのような状態に近いかと思います。

その結果として、自分のなかでプラスの作用とマイナスの作用のようなものが、見事にバッティングして「葛藤」のようなものが、真夏の積乱雲のように一気に発生してくるタイミングでもある。

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つまり「迷い」のようなものが、ひどく生じやすいタイミングなのだと思うんですよね。

ウィンストン・チャーチルが言ったとされるけれどその真偽は定かではないあの有名な言葉、「20歳の時にリベラルでないのなら情熱が足りない。35歳のときに保守主義者でないのなら、思慮が足りない」のような話にも近い。

それぐらい一気に立場が変わり得る可能性を秘めている年齢でもあるんだと思います。

この点、村上春樹さんも「もう若くはないし、まだ中年の域にも達してない。ある程度自分というものを持ってるけど、まだ凝り固まってはいないし、迷いもある。どこに進むのかも自由。」それが36歳という年齢だというふうに語られていて、こちらも本当に腑に落ちました。

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で、諸先輩たちの背中を見ていると、このタイミングにおいて、大体のひとが取る手段というのは大きく分けて2パターンにわかれいます。

ひとつは、開き直る。もうひとつは、卑屈になる。

大体のひとは、この二択から選んでいるように、僕には見えます。「◯◯おじさん」と自らを積極的におじさん認定するのは非常にわかりやすい例だと思います。

そして、どちらの選択肢を選んでも、大体はうまくいく。

でも、そのうえで、第3の道もあると思うのです。

目の前に、はっきりと現れている分かれ道、それらを選ばずに、地下に潜るという選択肢。

それが村上春樹さんが描かれる主人公たちが辿るような道であり、「井戸掘り」であり「壁抜け」のようなことなのだと思います。

それはもちろん、ものすごく困難がつきまとうことです。

それを選ぶことで、たくさんの葛藤が生み出されるし、いちばん困難な選択肢でもあるとは思います。その道を選んだこと自体に後悔することも多く、それこそ「やれやれ…」という言葉が止まらない。

というか、その葛藤が嫌だからこそ、一般的にはどちらかの道を選んで、割り切ってしまおうとするのだろうなあと。

でも、人間は葛藤のうちにこそ、成熟する。それは間違いないわけですよね。

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今日も、たまたま知人から「なんで村上春樹さんの本を急に読み始めたんですか?鳥井さんらしくなくて、驚いた」と言われたのですが、そのご指摘は本当にごもっともだと思っています。

僕は、過去にこれまで村上春樹さんの作品に、全く触れてこなかった人間です。でも、今は不思議とスイスイ読めてしまう。

これを読めている自分自身に、一番自分がビックリしています。

では、なぜそれが可能となったのかを、今ふと振り返って考えてみると、きっと読み物もしくは小説として、読んでいない部分があるような気がしているのです。

むしろ、それよりも、ものすごく具体的な自己の葛藤に対して、その立ち向かい方を懇切丁寧に解説してくれているノウハウ本やガイドブックのような「実用書」として読んでいる自分が、どこかにいるんだろうなあと。

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「どうやって集合的無意識の部分まで降りていくのか、どうやって地下二階部分へと降りていくのか」その葛藤との対峙の仕方を、デフォルメされた「本当のリアリティ」を含んだフィクションとして読ませてもらっているようなイメージにも近い。

そして大事なことは、深く深く潜って、地下に降りていって「あわい」に到達したら、そこからちゃんと戻って来ること。

もちろん、ここでもし仮にそのまま落ちてしまったら、きっともう一生戻ってくることができない。

だから大抵のひとは底が見えないところに自ら降りていこうとなんかしないわけです。

でも、村上春樹さんはそこに自ら能動的に降りていくことを推奨されている。それがこの年齢の人間にとって、必然の作業であるかのように描いてくれている。

それ自体がものすごく大きな励ましであり、ものすごく大きな勇気づけだなと、僕なんかは思ってしまいます。

そして、その降りた先から戻って来るための方法、その戻るための「体力」や「気力」の話をずっとしてくれているようにも思います。

行ったきりの退廃的な感じではなく、この体力こそが重要だよ!と言い続けてくれていることも本当に稀有なこと。

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村上春樹さんのイメージを周囲に聞いてみると、一般的にはなんだかよくわからない非現実的なフィクションを書く作家であって、「おとぎ話」みたいだと思ったという解答が大多数です。

もしくは男女の性描写が多すぎて、いかがわしい小説だという誤解も多いはず。

でも今の僕からすると、ものすごく現実的な物語に感じてしまいます。

そのすべてが真実であると言われても、何の違和感もない。

それはまるで「灯台」のような機能を持っていて、真っ暗闇の中に、一筋の光として存在してくれていて、自らの進むべき道を照らしてもらっているような感覚にもなってくる。

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30代半ばのタイミングで、この地下をくぐった人と、そうじゃない人では、まったく違う印象が僕にはあります。

あと、最後に完全に蛇足ですが、引用した文章の中の「水先案内人」という役割の話は、かなりハッとさせられるものがありました。

実際、僕自身が現状、Wasei Salonを運営している身として実践していることは、このような「水先案内人」の役割のような気もしている。

一緒に伴走する役目として、隣にいることが自らの役割のような気がしていて、それぐらいがきっと、今の自分にはちょうどいいんだろうなあとも感じています。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。