最近思うこととして、運動習慣とか健康習慣とかって話題にあがっても「すごいですね」とか「偉いですね」とかしか言えない、言わせない何かが間違いなくあるよなあとよく思います。

だから、これほどまでに多くの場面でも話題になるんだろうし、実際それゆえに、これみよがしに大手を振って語られるのだろうけれども、一方で、相手と話しながら内心では「気持ち悪っ」とも思っていたりもするじゃん、正直に、と思うんですよね。

でもそうやって短絡的に否定することは、ある種の非国民みたいになるから表立って語らないし、語れないというような。

このような表面的には絶対に褒められるがゆえに幅を利かせてしまっている会話って、現代にはたくさんあるよなあと感じます。

この話をWasei Salonのタイムラインに書いたところ、やたらとみなさんから言及されたので、なぜこの話が、いまみなさんに刺さってしまったのか、そんなことも含めて、改めて今日のブログの中でも考えてみたいと思います。

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さて、まずこういう話をすると、すぐにルサンチマンで回収されてしまう。

つまり、本人が一番よくわかっているわけですよね、だから余計に黙り込むしかなくなる。

そして、「自己管理ができている=人間として規律がある、優れている」というロジックというのは、あまりにも強固な正論でもあるわけです。

正論であるがゆえに、それに馴染めない、あるいは違和感を持つ側は「ルサンチマン(妬み)」として処理されてしまい、反論の余地を完全に奪われてしまうという構造です。

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「おまえが言うな」という話ですが、そりゃあ禁煙も禁酒なんかも、これだけ流行るわけです。

だって「やっているやつ」と「やっていないやつ」だったら、現代人の価値観から見て、どっちが上かは明白なわけですから。

だから、聞かされる側は「すごいですね」としか言えない「詰み」の状態に追い込まれるわけですよね。

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これはたとえるなら、健康と運動習慣が、一昔前の学歴と肩書なんかと同じ扱われ方をしているんだと思います。

今日はもう、学歴をひけらかすこと自体、ダサいことの象徴となってしまっているから、相当にセンスのない人間しか学歴の話なんて持ち出さない。

でも人間、特に日本人には儒教文化が深く根付いていて、ヒエラルキーをつくらないと自らのポジションを定めることができない。その国民性自体は昔と何も変わっていないからこそ、その不安定さに耐えられないわけです。

それゆえに、余計に外見や収入、フォロワー数というあけすけな数字に向かう。

もしくはそんな金や数字に品がないと思えば、運動と健康の話をひたすら繰り返す。

そして対話相手と、どっちがより自己を管理統率できているかによって、相手との関係性をはかろうとするわけですよね。

その証拠に、従来的な学歴や肩書を否定するひとほど、無意識に相手に対してマウントを取れるとわかっているからこそ、運動と健康(食生活)の話をするわけですよね。

でも、それっていうのはまさに昔の学歴・肩書・家柄と一緒じゃん、まったく同じ構造じゃん、って思うんです。

価値観が変わっても、人間のヒエラルキー欲求そのもの自体はまったく変わらないなあと本当に強く思います。

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僕は運動をすること、健康を追求すること自体が間違っていると言いたいわけじゃない。

そこはくれぐれも誤解しないで欲しいところです。

むしろ運動をしたほうが断然良くて、なおかつそうするとめちゃくちゃ結果が出るからこそ、今日のような話が余計に大事な話だと思っている。

たとえば、F太さんのバズっていた以下のツイート。


このお話、本当にそのとおりだと思います。健康の問題として扱うことが100%正しい。

「心の問題」にすると一生答えが出ませんが、たとえば「ビタミンD不足」や「日光浴不足」にすれば、サプリを飲み、外に出るだけで解決の糸口が見えるし、見えてしまうわけです。

それゆえに健康の問題にして、今度は健康ハックに向かってしまうジレンマが現代には間違いなくあるよねって、僕は思うのです。

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そして、健康問題だからこそ、今度はデジタルデバイスを用いてデータ管理を徹底し、常にAIにアドバイスを仰ぐようになる。

そのうち、手段が目的化し「健康のために生きている」を通り越して「健康のためなら死んでもいい」になる。

そして気づけば「全部、ホルモンのせいだ、腸内細菌のせいだ、筋肉のせいだ」ってなる。それさえ改善すれば、この苦しみから解放されると信じて、猪突猛進する。

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ここまで来ると、先人たちが無気力を「精神の問題」にした理由も、一周まわってよくわかるなと思うのです。

まさに「ああすれば、こうなる」思考につながってしまうわけですから。自分の身体で、科学の実験をしているに等しい。

でも、そのときに欲している因果関係って、もはや陰謀論と大差ないわけです。「これさえ潰せば、全部うまくいく」という単純化が気持ちいいというだけなんです。

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また、もし健康や運動を科学の問題にするなら、これからの時代いくらでもAIによってあなたという存在が見事に「改善」されちゃう。

自分の健康診断のデータを全部読み込ませて、ウェアラブルデバイスで全部運動データなど読み込んで、食べ物も然り、すべてを数値化してAIに全部最適化される。

「何を摂取するか」だけではなくて、摂取する時間まで、なんなら摂取するときに「隣りにいる相手」まで、ありとあらゆるものをすべてAIにナッジされていく。

だって、「いつ誰とどこで何を食べたか」によって、自分の身体がどのように変化したのかまで、すべてスキャンされるわけだから。

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「会社の同僚(あるいは旦那さんや奥さん)と一緒に食べると数値が良くないですね。実は彼らがあなたの健康を阻害してます」みたいに、全部見透かした顔でAIから言われてしまう。

「だから、食事するときは、この映像を見ながら、この音楽を流して、ひとり静かに孤食にしたほうがいいですよ」と言われる。

そして、それに実際に従うと、実際にみるみる結果が出るわけです。驚くほどに、体調も改善されていく。

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そのうち、あまりにもAIのナッジが結果が出てしまうから、自分でも、なぜそれをやっているか、わからないようなことさえもやり始めると思います。

たとえば、日常のなかで突然逆立ちをするとか、変なポーズを取ることになる。

そして実際にやってみると、数値や体感で本当に思っている以上の結果が出るわけです。

だから、他者との打ち合わせの最中でも、AIからリマインドが飛んできて「これをやれば結果が出る」ってわかっているから、居ても立っても居られなくなって「ちょっとすみません…!」って言いながら、なぜかわからないのに、逆立ちをしたりする。

打ち合わせ相手から「なんでいま、逆立ちしたんですか?」って聞かれて、「いや、私もよくわかっていないんですが、AIに指導されたんで。コレ健康に良いんですよ、ほら」ってスマホに表示されている数値を見せる世界線。

「えっ、すごーい!私もやります!」とそれが伝染していく。

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さて、ここまで行くと、もはや村田沙耶香さんの小説に描かれるようなディストピアそのものですが、でも実際に似たようなことがもうすでに起きている。

でも、一体何のために生きているの……?

そう思うわけじゃないですか。

これまでは見える化されていなかった部分だし、そんな手取り足取りのパーソナルトレーナーをつけるなんて貴族かハリウッドセレブのような人々しか不可能だった。

でもこれからは、全員がそれをできてしまう。しかも、24時間365日休む間もなく、です。

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みんながそれを実行すれば、AIに従って体質改善をしていないやつは、非国民扱いを受ける。

文字通り、その数字と健康保険や年金なんかのデータも紐づけられて、国民皆保険サービスの優遇なんかも受けられず、自業自得の世界観が完成する。

ソレに抗うのが、寅さんみたいな人なのだろうけれど、そんな寅さん的な立ち振舞は、ものすごく怪訝な顔で見られてしまう世界線が、もう来年ぐらいまでに迫ってきているわけです。

「ソレの一体何がいけないことなの…?みんなが健康になるならいいじゃん!」という人には、僕が今何の話をしているのか、まったく意味がわからないと思うのですが、僕はさすがにそれは嫌だなと思う。

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だからこそ僕は、松岡正剛の語る「フラジャイル」のような感覚のほうを大事にしたい。

以下は、『知の編集工学 増補版』からの引用です。

フラジャイルとは「壊れやすい」ということである。よく小包などに「壊れもの注意!」というラベ ルがくくりつけられていることがあるように、壊れやすい彫刻やガラス製品などを郵送するときには、 このラベル一枚が静かにものを言う。壊れやすいか
らこそていねいに運ぶことが約束されるのだ。 私が注目するのは、この「壊れやすいからこそ、壊しにくい」という不思議な関係だ。たんに弱者に気配りしようというのではない。それもあるけれど、 自分の強さのレベルで相手に向かうのではなく、自分の弱さのレベルで対象と柔らかく接することが、かえって情報交換をなめらかにするということだ。


人間が本当に他者と繋がり、深い情報を交換できるのは「自分の弱さや、ままならなさ」を露呈したとき。

だとしたら、結局、僕らが冒頭の話になぜ刺さってしまうのかといえば、「効率や数値で測れない、自分だけの『ままならなさ』を肯定してほしい」というそんな切実な願い、そこから来る裏返しだからじゃないかと思うのです。

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繰り返しますが、健康が大事なのは間違いない。そのために「運動」が効くのも間違いない。

だからこそ、なおさら、壊れやすさの側から語り直す必要がある。やっぱりここでも「裏の裏」が大事なのだと思います。

現代社会のメインストリームに抗って健康や運動から目を背けて退廃的に生きるわけではなく、一方で、ハックしすぎようとして健康ヒエラルキーに自らを位置づけてAIの奴隷になってしまうわけでもなく、

お互いのフラジャイルを認め合い、互いに尊重しながら、裏の裏として、ただ普通に健康に生きるというような姿勢。

どうにか今日の話の意図がしっかりと伝わっていたら嬉しいです。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。