”『冬のなんかさ、春のなんかね』が面白いから観てほしい。
このドラマは、「人とまっすぐ向き合えない主人公が、人とまっすぐ向き合っている人たちと向き合うことで、自分と向き合う」ドラマだ。”
これは、このブログシリーズ(冬のなんかさ~の押し付け)の第一弾の書き出しである。
この一節について、訂正したいことが二つある。
まずはこの箇所。
”『冬のなんかさ、春のなんかね』が面白いから観てほしい。”
これを
”『冬のなんかさ、春のなんかね』がめちゃくちゃ面白いから観てほしい。”
に訂正したい。
いやほんと、めちゃくちゃ面白い。
というより、最新回の第7話がめちゃくちゃよかった。どういう風によかったのかというのは、後半で言及する。
もう一つの訂正箇所は、
"このドラマは、「人とまっすぐ向き合えない主人公が、人とまっすぐ向き合っている人たちと向き合うことで、自分と向き合う」ドラマだ。”
というところ。これを
"このドラマは、「人とまっすぐ向き合えない主人公が、人とまっすぐ向き合っている人たちと向き合うことで、死ぬことや生きること、そして「人はなぜ生まれるのか?」という問いと向き合う」ドラマだ。”
に訂正したい。
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舐めていた。
もちろん、「このドラマ面白いなー」と思っているから見続けているし、そう思っているからこそ、こうして毎回ブログを書いてもいる。しかし、今回の第7話を観たことと、妻と一緒に第3話と第4話を見直した(妻は一周目)ことで、「あ、おれこのドラマ舐めてたわ」と思うに至った。
なぜそう思ったか。それはこのドラマの「射程」を見誤っていたことが第一の理由だ。
第一弾のブログを書いたとき、私はこのドラマの射程を「対人関係」のレベルでとらえていた。しかし、そうではなかった。このドラマは「対人関係」の枠を超え、人の過去、現在、未来にまで射程を伸ばし、そこから生まれる問いを私につきつけてきた。
「人はなぜ死ぬのか」「生きるとはいったいなんなのか」「人はなぜ生まれるのか」
そんなことを考えさせてくるドラマだったのだ。
なぜそのような問いが立ったのかということは、ぜひドラマ本編で確認してほしい。
これまではネタバレ上等で感想を書いていたが、ドラマが「現在」を描くフェーズに入った今回からはネタバレなしでいきたい。
いまだに、このドラマに興味はあるが「観よう」というまでに至っていない人は、わるいことは言わないから早く観てほしい。おそらく、こっからこのドラマ、すんごく面白くなると思う。(予想がハズれたらごめんなさい)
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私がこのドラマを「舐めていた」と感じた理由の二つ目は、このドラマが内包するメッセージに気づいたからだ。
現代人は、サムネやタイトル、はじめの数秒/数行で「興味ない」「関係ない」と感じたら必要最小限の動きでそのコンテンツをパスすることができる。だからこそ、クリエイター側には「サムネにこだわれ」「タイトルを工夫しろ」「つかみが肝心」という前提が当たり前のようにある。こういった前提は、クリエイターとコンテンツ消費者の間の共通認識となっているため、そのお約束を守っていないコンテンツやクリエイターは消費者にとっては「用なし」で、見向きもされなくなった。
つまり、現代人にとってはコンテンツが「面白かったかどうか」よりも「面白そうかどうか」の方が重要だということだ。現代人は、コンテンツの中身をじっくり味わったうえで、それが自分にとって面白かったかどうかを振り返るのではなく、コンテンツの外側だけを見て「面白そう」だったら観たり読んだりするし、「面白くなさそう」だったらそうしない。
そして、自分が観たり読んだりしたコンテンツについて「他の人はどう思うのか」を検索し、自分の考えと近そうな人の意見や、多くの人が感じていそうなことを収集する。そしてそういった意見や感想、考察が自分のものだと思い込む。もしそこに、ネガティブな意見が多ければ自分の意見もネガティブなものになる。「私は面白かったけどな」ではなく、「そうか、これはつまらないのか」と思うということだ。
このドラマは、そういった「わかりやすさを希求し、ヒトやモノと表面的な関係性しか築けない現代社会」への批判がメッセージとして含まれていると感じた。
そして、そうした表面的で浅い判断や思考が、私にも備わっているのだということを、このドラマを通して思い知らされたのだ。
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主人公の文菜と、浮気相手の山田線(内堀太郎)との関係は、「表面」的には受け入れることが難しい。しかし、その表面の内側には、私たち視聴者が知らなかった過去や事情がある。
人の行動には、その行動を起こさせるに至った意味や背景が必ずある。
それは、自分の行動を振り返ってみればおのずとわかる、当たり前のことだ。
このブログだって、表面的には単なるテキスト情報だが、その背景にはドラマを観てからブログ執筆までに費やした時間や、ここには書き切れなかった想い、ブログを書きながら感じている葛藤のようなものがある。
しかし、そういった背景や見えないところを、自分が読者側に回った時には想像することができない。テキストの評価はテキストだけを見て行い、人の行動に対しても、その行動だけを見て評価してしまう。
文菜と山田が置かれている「現在の」状況や、今目の前で繰り広げられているやりとりだけをみて、「この状況に置かれている二人が、こんなやりとりをするなんてけしからん」と思ってしまうのだ。
そこには、この二人が互いに紡いできた時間や、各々が抱いている感情があるにも関わらず、私は二人の「表面」だけを見て、この二人を心のどこかで断罪していた。
しかしそれは表面に過ぎない、人には必ず表には現れてこない裏側や内側が必ずある。
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そう考えると、これまでどれだけのことを「想像してこなかったのだろう」と思う。いつだって自分は、自分に都合のいいように他人の言動を解釈していたのではないだろうか。
想像した上で勘違いだったならまだいい。そうではなく、想像さえしてこなかった自分が恥ずかしくなる。
このドラマを通じて、自分の想像力の足りなさと、性急に自分に都合よく判断する姿勢を振り返り、自分の小ささを自覚することになろうとは思いもしなかった。

2026/03/07 15:31
