最近、Wasei Salonの中で「物欲」についての話題が出ることが増えました。
とくに印象的なのは、「物欲がない自分に驚いている」という声が、ひとつのテーマになっていること。
そしてこの話をすると、だいたい世間では褒められる。「悟ってるね」とか「欲に振り回されてなくて大人だね」とか、そんなふうに。
僕も、そういう言葉を他人から無邪気に何度ぶつけられたかわかりません。
ただし、最近あらためて思うんです。
「物欲がない」という同じ外見をした状態の中に、実はまったく別物の二種類が混ざっているんじゃないか、と。
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じゃあ、それは具体的にはどういうことか。
まず1つ目のパターンは、欲望自体はちゃんと立ち上がる。でもその瞬間に「よし買おう!」と反射で飛びつくのではなく、自分の中で一呼吸おけるということです。
「今の自分に本当に必要か?」「それを買ったら生活はどう変わるか?」そういう問いが自然に挟まるわけですよね。
その結果として、広告のイメージに引っ張られているだけだと気づいたりしながら、実際には自分には必要がないと思い改めて、「今回はやめとこう」と能動的に選べること。
これは禁欲というよりも、自らに主導権があるという状態に近いと思います。
そして、そんな欲望があるからこそ、不要なものもちゃんと選べる。選べているからこそ、そこに自由があるというような。
これが食欲で言えば、お腹は空く、でも今日は腹八分目で止められる。デザートも美味しそうだけれど、そこまで食べると太ってしまうとわかっているから、あえて食べない選択ができる。
それも食欲がちゃんとあるからこその話です。
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一方で、2つ目のパターンは、物欲それ自体が存在しない。
いや正確には、存在しないように思えてしまう状態。
欲しいものが思い浮かばない、何かを見ても反応が起きない。百貨店に行ってもまったく心が動かない。
この状態も、外側から見れば「物欲がない」ということ自体は変わらないので、褒められやすいわけです。
でも僕は、こっちのほうは、半分は鬱状態に近いと思っています。学習性無力感なんかにも似ている。
「どうせ手に入らないなら、欲しがるだけ無駄」「物欲を持つこと自体が苦しくなる」無意識のうちにそう思ってしまっているから、物欲自体が湧いてこない。
そういう経験が何度も積み重なってしまうと、人は自分の心を守るために欲望のスイッチを完全にオフにしてしまうことがあるよなあと。
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これは適応というより、むしろ去勢に近い。
食欲で言えば「太るから我慢できる状態」と「そもそも空腹を感じない状態」は、まったく違うように、です。
後者の食欲それ自体が存在しないという状態は、健康ではない可能性が高い。身体か心のどこかが悲鳴を上げている。
物欲も、まったく同じだと思うのです。
「二の矢は防げる」というあの話とまったく同じで、二の矢を防ぎたいがために、一の矢が自らにぶっ刺さった状態、それさえも完全に無視してしまう状態。
それはまったく健全じゃない。
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で、後者が本当に厄介な点というのは、社会がそれさえも同じく「物欲がない状態」として「美徳」として扱ってしまう点だと思います。
他人からは決してわからないから。自己点検してもらうしかない。
物欲がない人は、成熟しているように見えるし、謙虚にも思える。
そして欲のない人は、社会にとっては、圧倒的に都合がいいわけです。低コストで文句も言わず、既存のシステムや権威も脅かさない。
管理する側からすれば圧倒的に「扱いやすい優等生」に見える。
だから周りは安心して褒めるし、それゆえに本人も気づきにくい。
そして、「私はこの状態で他者から褒められているんだから、このままでいいんだ」という風に勘違いしてしまう。
でもそれは、自らの欲望をコントロールしているようで、隷属している状態にすぎない。
「欲しがりません、勝つまでは。」を美徳にして、その標語に隷属することが国民の喜びだった時代だって、この国では現にあったわけですからね。
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つまり、恐ろしいのは、「諦め」が「悟り」に見えてしまうこと。
もちろん「無常なるものは必ず苦である。不満足に終わりがない」という意味で、欲望には際限がないのは事実。
だから「足るを知る」という言葉は、本来は豊かさの中で、強欲を戒める知恵でもある。
でも現代では、持たざる者が、持つことを諦めるための言い訳として使うこともある。
このすり替えが起きると、社会への悪い形での適合が、静かに進んでしまいます。
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この話を書きながら、哲学者・東浩紀さんの最近の一連のツイートが頭に浮かびました。
東さんは、中・低所得者に対して「職業も尊厳も社会的地位も与えず、給与(≒食料と健康)だけ与えて“生きさせる”」という政策を、フーコー的な生権力の最悪の帰結として批判していました。
https://x.com/hazuma/status/2028381774074765436?s=20
さらに「要は、おれたちゃ動物じゃねえだろ!」とまで言い切っている。
この考え方は、今日の「物欲がない」の話と、地続きだと思います。
なぜなら、東さんの言う「給与だけ与えて、ベーシックインカムによって生きさせる」という社会の設計は、人間を生存する身体としてのみ扱う発想だからです。
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食料と健康さえ保障すればいい。生きていけるならそれでいい。あとは効率よく分配して、摩擦なく回していくことが社会平和だといわんばかりに。
この思想は、一見すると合理的で非常に正しそうに見えるのだけれども、東さんは、そこに断固反対するわけです。そして僕も完全に同意見です。
人間は確かに動物だが、動物ではすまない部分もある。その“過剰性”こそが、人間を人間たらしめているはずで。
言い換えると、その過剰性こそが、人間の証しでもあり、それこそが、僕がここで言っている「欲望」の正体に近い気がしています。
以前、福沢諭吉が挙げた人間の特徴として「欲」があること、という話もご紹介したことがありますが、まさにそれ。
AIじゃないんですよ、人間は。
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どうしても物欲って、低俗なものだと思われがちです。
だから「物欲がないのが、正しい」という空気が生まれやすいのも本当によくわかる。
でも本当は、欲望ってもう少し広い意味での生命エネルギーそのものだと思います。
外の世界と関わりたい、自分を拡張したい、より良い状態になりたい。そして、いまの自分や社会に対して「これじゃない」と言いたい。
その「これじゃない」感というのは、一見すると、わがままでもある。面倒でもあるし、その欲望の追求の先に、摩擦や衝突なんかも生んでしまう。
でも、それは自分の身体が健全な状態とも言える。だから、物欲があること自体を恥じる必要はなくて、むしろ、ちゃんと欲が立ち上がるというのは健康のサインでもある。
問題は、欲望に振り回されてしまって自己を見失ってしまうこと。だとすれば、欲望を封じ込めすぎて、自己を見失ってしまうことも、同じぐらい悪であるはず。
帯に短したすきに長しという状態です。
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そして、これは物欲に限らない。
やる気も、人間関係への興味も、創作意欲なんかも、おそらくすべて同じ構造をしているはず。
「別にいらない」「別に会わなくてもいいや」
それが自らの自由な選択の帰結なのか、それとも、社会からの抑圧に対する強いられた無意識の諦めなのか。
ここを見誤ると、人間の根本的なエネルギーがみるみるうちに枯れていき、人生それ自体の色彩も失われてしまい、ただただ命が尽きる順番を待つ、家畜なんかと一緒になってしまう。
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とはいえ、昨日の譲り合い精神と矛盾すると思われる方もいるかもしれない。
僕は、そこに「体温」がないと危ないということが言いたいんです。
譲り合い精神って、結局のところは「相手がそこにいる」という感覚だと思うから。
相手の存在を前提にした親切心の問題であり、相手に親切にすることこそが、自らの無上の喜びだと気づけること。
欲望の話も「自分が生きている」という体温の話だと思っています。
僕が、コミュニティを通して守りたいし、実現したいと思うのは、そういう人間らしい生っぽさや体温が宿っていることなんじゃないかと思う。
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AIやシステムに配慮を外注しすぎると、正しさや整合性は取れるしれないけれど、同時に生っぽさや体温がドンドン失われていく。
「キレイにできたようなものが、実は一番進まない。」という建築設計士・黒木さんの言葉も、本当にそのとおりだなと思います。
整いすぎた状態は、進んでいるように見えて、実は何も生きていないに等しい。
欲望も同じで、整いすぎた欲のなさは、成長でも成熟でもなく、努力できない自分の隠れ蓑に過ぎない。
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だから僕は、「欲望がある状態」をちゃんと守りたい。
「物欲がない」と言われて褒められたときにも、一度立ち止まって考えてみて欲しい。
今のAI時代に、人間とは何かを考えるときにものすごく重要な視点だと思っています。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、何かしらの参考となったら幸いです。
2026/03/04 16:32
