この点、グングンと前に突き進んでいるとき、私たちは自分の頭で考えるチャンスに恵まれていると思いがち。

でも、本当に考えているときというのは、むしろそのように前に突き進んでいるときではなく、「あれ、なんか違うぞ…」と、道に迷い始めたときなのではないでしょうか。

つまり、道を確信し、前進しているときではなく、道に迷い、引き返しているときにこそ、本当の意味で考える機会に恵まれている。

今日はそんな仮説を少しだけ、このブログにも書き残してみたいと思います。

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この「迷い」というのは、自らの中に生じてきた「違和感」と言い換えてみてもいいかもしれません。

ともすれば僕らは、自分の中に生じてきた「違和感」を悪いものだと捉えてしまいがちです。

特に、世間で「こっちに進めば間違いない!」と言われている中で、そんな違和感を抱くことは、なんだか一神教における神に背くような背信行為のように思ってしまう。だからこそ、勝手に自己規制をしてしまうのでしょう。

でも、そのときに初めて自らの頭で考えるチャンスに恵まれているはずなのです。

なぜなら、道をグングンと突き進むときは、何かひとつのわかりやすい正義に従っているだけの場合が多いから。

誰かがつくった明確な「ルール」や「ものさし」が最初にあって、そのルールに当てはめて正誤を判断しているだけだったりします。

その正誤を判断する行為が、自分の頭で考えているように感じられるのですが、本当は誰にでもできる単純作業をこなしているに過ぎない。

だからこそ、過去には社会主義も同様の理由で失敗してしまったのだと思います。思想やイデオロギーだけが先行し、そこに当事者たちの「迷い」や「ためらい」が存在しなかったから。

現代であれば、SDGsのわかりやすい標語なんかがその典型例だと言えるでしょう。

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本当の意味で自分で考える時というのは、その与えられたルールやものさし自体をまず疑って、新たに自分自身でルールやものさしをゼロから作り始めなければならない。

これはものすごく大変な作業です。また、ものすごく孤独な行為でもある。

完全に暗中模索で、指針になる北極星のようなものさえ見つからないかもしれない。

でも、似たような孤独に耐えながら、考えてきた先人たちは間違いなくこの世に存在していて、彼らはたくさんのヒントを私たちに残していってくれました。

そして現代においても、それぞれが別々の場所で似たようなことに必死で取り組んでいる同志たちがいる。

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だからこそ、会社や政府のような、お上から降りてくる正義の「正誤判断」を淡々とし続ける人生ではなく、積極的に道に迷いに行けばいいのだと僕は思うのです。

突き進んだ先で、その誤解に気づき、違和感を感じたときにこそ、初めて自分で考えるチャンスに恵まれるのだから。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。