人間関係において、お互いの「違い」をおもしろがり、その「違い」から得られるような学びから生まれてくる好奇心を満たせる空間が、現代の世の中には本当に少ないよなあと思います。
で、かなり唐突な話ですが、そのような場があれば、大人同士の不倫みたいなものも、ある程度は減っていくんじゃないかなあと思っています。
僕は、自分自身が独身ということもあるし、なんだか治外法権が認められそうな感じだからなのか、結構ラフに他人の不倫話を聞かせてもらえる立場にあるのですが、
それを毎回ただ黙って聞かせてもらっていて思うのは、相手のなかの「違い」に興味を持ってしまったんだなあということなんですよね。
その結果として、不倫のような選択肢を選び取ることが、本当に多いなあと思います。
僕は、それ自体を別に悪いとも思わないけれど、でも、そのような感じで本当は倫理を踏み抜きたいなんてまったく思っていないんだけれども、
ただ、その自らの中にある「違い」に対する好奇心や高揚感と、倫理観や常識みたいなものが天秤にかけられて、その上で「違い」に対する好奇心のほうにちょっとでもフラッと傾いてしまうと、ダメだダメだと思いながらも、一歩踏み出してしまうということなんだろうなあと。
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逆に「相手との興味関心が重なりすぎて…」ということは、あまりないような気がしています。
それはやっぱり、純粋な恋愛において起きることであって、その重なり合う「同じ」の部分を担保にするのは、圧倒的に結婚していく理由に多い。
「私たちは、こんなにも『違うから』結婚しましょう!」は、プロポーズの言葉にならないですもんね。
でもだからこそ、好奇心をそそられるような「違い」がますます稀有なものにもなっていく。
それも当然のことで、現代は「同じ」でつながりすぎだと思うのです。
もちろん、それは仕事でも、友人関係でもなんでもそうだと思います。
「同じ」をこれでもか!というほどに強調しないと、共にいられないと思い込まされている時代がまさに今なんでしょうね。
「推し活」なんかもそうですし、何か社会人同士が新たな関係性を構築するときも、無意識のうちに「同じ」という旗印のもとに集まってしまう。
そして「違い」はすぐに、反射的に棲み分けるという方向へと向かいがちです。
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でも、人間が本当に求めているのは「違い」を尊重し合った「学び」につながるような好奇心や高揚感のほうにあるような気がするんですよね。
その時に必要なものが、きっと相手に対する敬意だったりもするはずで。
違うがゆえに、「お互いに余人を持って代えがたい」と初めて思い合える。そのメッセージを発し合える。だからそのメッセージを受診して、生きる実感を味わえる。
そのような場が、現代にはほとんど存在しないから、不倫のような、大人になってからの危ない「交友関係」をつくってしまう、ということなんだろうなあと思います。
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で、だとしたら、そのような友人関係を危なくない場において、しっかりと作り出すことが大事になってくると思うのです。
もちろん今日のこの話も、決して僕の新しい発見でもなんでもなくて、最近読み終えた社会学者・橋爪大三郎さんの『人間にとって教養とはなにか』という本の中に「まさに!」と思えるようなお話が書かれてありました。
具体的には「友人とは、違いで結びつく」というお話で、以下は本書からの引用となります。
ここでひとつ意識するといいのは、人は「共通点」ではなく、「相違点」で結びつくということです。
共通点があるから話が弾んで、仲よくなれるんじゃないの、と思うかもしれない。それはそうです。でも、共通点だけだと、もの足りないものなんです。
よい友人は、何かしら自分と違うところがあるひとだ、と思います。
この世に二人として同じ人間はいないのだから、誰でも自分と、どこか違ってはいる。
だから、相手が、自分と違うところがあるよい友人になるかどうかは、自分にかかっている。自分と違うところを、どう相手に見つけられるか。その違いを楽しめるか。そこがポイントなんです。
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これは、本当にそう思いますよね。
そして、この「違い」とは「敬意の源泉」でもあるというお話につながっていきます。このあたりも非常に重要な話だなと思いながら僕は読みました。
繰り返しますが、現代は、違いを感じた瞬間に、相手を自分とは異なる存在として遠ざけることが当たり前になってしまっている。だからこそ、余計に「同じ」によってつながらないいけないというプレッシャーにもつながってくるわけです。
でも本当はそうじゃなくて、「違い」こそをおもしろがり、その違いを見つけたときに、互いに「敬意」を発することができることがとても大事なことなんだろうなあと。
さらに本書の続きの部分から引用してみたいと思います。
人間同士の「学び」とは、相手のなかに、自分が知らないこと、わからないことがあって、はじめて成り立つ。
「違い」は、知らない、わからない、の源泉です。「違い」を見つけると、知らないことを知ること、わからないことをわかること、につながっていく。これを人間同士の「学び」と呼ばないで、どうしよう。
「違い」はまた、「敬意」の源泉でもある。
「あの人は、自分と違って、こういうところが素敵」「あの人は、自分と違って、こういうことができてすごい」大事なのは、これはお互いさまだ、としっかりわかっておくことです。そうでないと、人と自分を比べて落ち込むことになってしまう。
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自分にはない何かが、相手の中にはある。
ひとはそれを見つけたときに、好奇心や高揚感に自然と駆り立てられる。
そして、自分がそれを感じているときに自己嫌悪に陥らないように、相手にない何かが自分の中にあると自信を持てることも、同時に非常に重要な要素で。
その認め合えること、そのバランス感覚を他者との間に健全に保てる間柄がとても大事なんだと思うんですよね。
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そして、その「お互いに異なる何か」をもっていることをお互いをリスペクトしている、そんな関係性をいかに「場」として作り出していくことができるかが本当に大事なんだと思います。
ここにいる相手であれば、自分をリスペクトしてくれているに違いないと思えるようになれば、自分に対するポジティブなイメージ、その自己肯定感も自然と高まっていくわけですから。
同様に、自分が相手をリスペクトし返すことで、相手の自己肯定感も同様に高まっているに違いないとある程度は予測が立つから、さらに踏み込んだ話が、できることにもつながっていく。
その合意が最初に形成されていれば、多少の極端な思考実験だったり、お互いの人格否定ではなく両者の前にある問い自体を共に深めていこう、というある種の「許された危険の法理」みたいな一歩だったりにも共に踏み出していけるはずで。
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このように「違い」で結びついた関係性を通じて、自分自身をポジティブにとらえることができるようになることがまず大事なんだろうなあと。
また、それが両者にとって対等に起きている状態であること。
それが本当のよい友好関係であり、人間関係なのだと思います。
で、たぶんこの関係性を、現代人を本質的には求めているんだろうなあと強く感じます。少なくとも、僕にはそう見える。
でもそれがうまく言語化できなくて、まさかそんなことを自分自身が求めていることだとも思えないから、望んでいない方向へと流れてしまう。
心にぽっかりと穴が空いていることだけは明確にわかるのだけれど、その埋め方がまったくわからないから、というような。
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だから、火遊びのような危険な遊びのほうに流れていく。酒やギャンブルなんかもそうだと思います。それを模したドラマなんかにハマるのも、そう。
子どもが退屈すぎて、何か自分の好奇心を満たすものがないかと思い、無邪気にマッチ箱で遊ぶことなんかにも、とても良く似ている。
誰にも教わったことがないから、何かそういう人間的なつながりの満たされなさを埋めるために「偽造された愛」や「欲望」の流されるままを求めてしまう。現代のわかりやすいトラップだなあと思います。
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でも、きっと本当はそうじゃないんですよね。
敬意が循環する場は、倫理や道徳なんかをいちいち踏み抜かなくても、構築できるものであるはずなんです。
僕はそのような関係性みたいなものを、一対一でというよりも、もっと広く、場として顕現させていきたいなあと思います。
そのためにはお金なんてかからないし、高価な装飾品や複雑な道具だっていらない。本当に空っぽの広場さえあればよくて、そのコミュニティ内には有名人や専門家、影響力があるひとなんかも当然必要ない。
ただ、そこに集う各人が、自分たちの中にある敬意と配慮と親切心を互いに持ち寄って、それぞれの潜在的な能力を、それぞれに「違い」が輝くように発揮さえすれば、当たり前のような顕現するんだってことを証明していきたい。
そんなふうに「自分自身という人間が一体何を求めているのか、先人たちはそれをどのように捉えてきたのか」それらを探求することこそが、真の教養の問題なんだと思います。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考になっていたら幸いです。