「対話」って、改めてむずかしいんだなと最近よく思います。

理想的な対話を目指しても、どうしても「講義・インタビュー」形式になるか、もしくは「議論」になりがちだなあと。

相手の話をただ聴くだけではダメだし、自分の意見を言うだけでもダメ。

「聴きつつ聴かない、意見を言いつつ言わない」という状態を、対話に参加している全員が実践しないと、真の意味では対話になっていかないという、このむずかしさ。

つまり、どっちも大事だといういことですよね。

今日は、このあたりのどっちも大事という話を矛盾が出ることを承知で、少し考えてみたいなと思います。

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さて、ここ数年はずっと「聴くこと」が重視されてきたわけです。

なぜなら、世の中で多様性叫ばれて、立場の固定化が忌避される傾向にあったから。

でも「聴く」という行為も、自分の意見を主張することの重要性を過度に強調する態度と、それほど変わらない態度であることが徐々に明確にもなってきたのだと思います。

たまたま年功序列社会や実力社会で自己主張することの重要性に振り切っていた時代が長かったから、逆に振った「聴く」に光が当たっただけで、両者にあるのは、結局のところ、自分の立ち位置はっきりさせたいという病。

対話者同士のヒエラルキーはっきりさせたい病がそこには潜んでいるなと思います。

喋る人ばかりがいつも疎まれれるけれども、実際はそうじゃない。聴いちゃう側の問題だってあるわけです。

聴かれていると思うから、一方的に話してしまうわけですから。

そして、そうやって下手(したて)に出てしまう人間的な弱さもある。そして、陰で悪口を言うのが、一番簡単でもある。「あいつは喋りすぎ」だと。でもそれが一番邪悪というか姑息な態度だなと僕は思います。

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また、現代は「コミュニケーションの成功それ自体」の優先度がとても高くなっているような気がします。

これは、実社会において分断が広がり、コミュニケーションが成り立たない場面が増えてきてしまっていることも非常に大きい。

昨日のブログの中でも書いた、ラジオやPodcastの演者同士の「関係性の良さ」を重視する態度もきっとここにつながると思います。

演者同士のツーカーな様子や、仲の良さ。互いの意見を丁寧に尊重しながら、耳を傾け合っている様子それ自体に、内容や情報以前のある種のカタルシスをリスナーたちが感じている。

これもきっと、SNSではバチバチしていて、実社会では分断による平行線を辿ってきたからこそ求められている状況なんだと思います。

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で、ここでふと思い出すのは、平野啓一郎さんの『私とは何か    「個人」から「分人」へ』という本の中に出てくるお話です。

平野さんは、コミュニケーションはもともと他者との共同作業であると語ります。

会話の内容や口調、気分など、すべては相互作用の中で決定されてゆくのだと。

それがなぜかといえば、コミュニケーションの成功には、それ自体に深い喜びがあるからだと語るのですよね。

これは、言われてみると確かにそのとおりで、音声での対面コミュニケーションの場合、相手とのコミュニケーションが実現していること自体に、僕らは喜びを感じやすい。

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で、これは更に、朝井リョウさんが以前語られていた話にもつながるなと思っていて。

朝井リョウさんは、先日もご紹介した文藝春秋の動画インタビューの中で「何事においても『本質』を求めるのは実は男性的な視点なのではないかと気づいた」というお話をされていました。

この話を聴いたとき、僕は強く膝を打った。

一方、女性は本質よりも、コミュニケーションの成功それ自体に価値を置き、そちらを重視するわけですよね。

男性的、女性的という表現で区切りたいわけではいけれど、これは本当にそのとおりだなあと思います。

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どっちが良い悪いではなく、きっとどちらも正しくて、この両者の視点を持っていることがいま大事だなと思うんですよね。

そして、今の世の中、とくに仕事や議論の場においては、男性的な視点に偏っていることのほうが、公の場においては多いわけです。

そして、井戸端会議など、コミュニティ感を重視するクローズドでプライベートの場においては、コミュニーケーションの成功それ自体に価値が置かれがち。

だとしたらきっと、コミュニティ内の対話も、それが本質観取だけが目的であってはいけないんだよなと思います。

なぜなら、本質観取とは、まさに「本質」を求める行動だから。それは、ひどく男性的でもある。

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もちろん、一方で、コミュニケーションの成功それ自体を追い求めてしまうと、互いに「傷を舐め合う」状態にも陥ってしまい、何も建設的に進んでいかないというジレンマも生まれてきます。

だとすれば、やっぱり大事なことは、過去に何度も書いてきたように、お互いに向き合いすぎてしまうのではなく、同じ方向を向くことだと思うのです。

そのためには、あえて少しズラす。ズレつつも、コミュニケーションをし続ける、ぐらいがきっと一番ちょうどいいんだろうなあと。

同じ方向を向き、長く共にいるということを実践してきて、その時間経過のなかで、おたがいの悲喜こもごもが受け入れられるようになる。

当然、そのときは、「愛憎愛半ばする」状態にも陥るわけです。

でもそれさえもやっぱり、本当の意味で到達したい点に到達するためには、大事な通過点でもあって。

季節に四季折々が存在するように、人間関係においても、その四季の天気の移り変わりみたいなものを味わおうとする姿勢みたいなものが同時に必要だよなあと思います。

この時間的経過こそが、対話におけるひとつの重要なカギとなるような気がしています。

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で、ここで再び平野啓一郎さんの「分人主義」のお話に戻りたい。

平野さんは、前述した書籍の中で、「八方美人が嫌われる真の理由」についても書かれていました。

そのお話が、とてもおもしろかったですし、今日のお話も見事に関連してきます。

平野さんいわく「八方美人とは、分人化の巧みな人ではない」と語ります。

「えっ、逆じゃない?」と思うかもしれないけれど、むしろ誰に対しても同じ調子のいい態度で通じると高を括って、相手ごとに分人化しようとしない人が、八方美人な人であるのだ、と。

その具体例もとてもわかりやすかったので、ちょっと本書から直接引用してみたいと思います。

パーティならパーティという場所に対する分人化はしても、その先の一人一人の人間の個性はないがしろにしている。だから、十把一絡げに扱われた私たちは、「俺だけじゃなくて、みんなにあんな態度か!」と八方美人を信用しないのである。     
分人化は、相手との相互作用の中で自然に生じる現象だ。従って、虫の好かない人といると、イヤな自分になってしまうことだってある。場合によっては、〝八方ブス〟にだってなり得るのだ。


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このお話は、なんだかとても納得感のあるお話ですよね。

で、さらにこの平野啓一郎さんの主張に対して、完全に中指を立てているのが、僕は村田沙耶香さんの長編小説『世界99』だと思います。

つまり、同じ小説家である平野啓一郎さんのリベラルな価値観に対して、真っ向勝負してきたのが、村田沙耶香さんのあの小説。

時には「八方ブス」にもなって、全員にちゃんと別々の態度を取ることによる分人化の局地をいく主人公。

ただ、そこに本人の主体性だけが一切存在しない、という状況によって、思考実験してみたディストピア小説がまさに『世界99』だと思うのです。

世の中や世間、界隈にアジャストしすぎることの「孤独」がそこに描かれてある。

そして、これこそが現代人の虚しさであり空虚感であり、孤独感だろうと見事に暴いてみせたわけですよね。

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何がいいたいのかと言えば、どっちも正しいし、どっちも間違っている。

どちらかに振り切ってみたところで、必ず壁にぶち当たるということです。

つまり、現代人は、断絶を避けるためにコミュニケーションの成功こそを目指し、過度にアジャスト(丁寧に傾聴する姿勢)を行おうとするけれど、その過度なアジャストこそが、今度は本人の主体性の喪失という新たな孤独を生んでいるよね、ということです。

つまり、どちらのスタンスや態度であっても、あるべき理想や原理を掲げないことが、いま一番大事なことなのだろうなと僕は思う。

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それよりも、現実をつぶさに観察をすることのほうが大事。そのなかで立ち現れてくるありのままの現実の縁起みたいなもののほうに、目を向ける。

他者と対話するような場面においても、完璧に準備をしつつも、対話が始まったらすべてを完全に忘れてしまうこと。その場限りの「一期一会」を楽しむこと。

事前に準備したものを「持ち込みつつも、一切持ち込まない」という姿勢が本当に大事だなと思います。

ただ、そのときの自我や自信というものも同時に必要で、それは徹底した準備(つまり型や、仏教でいうところの熏習)に支えられているんだ、そう思えるぐらいがちょうどいい。

具体的には、意図していない無意識の動作や、鼻にふわっと漂ってくる香りぐらいがきっとちょうどいい。

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このあたりの微妙な塩梅は、言葉にするとどうしても矛盾してしまうから言葉で伝えることが本当にむずかしいなと思います。

でも間違いなく、このあたりに対話における本当に大事なことは眠っていると僕は思う。

押してダメなら、引いてみろ、それもダメなら、立ちすくめ。

そして、立ちすくんだ結果として、耳を澄まして、目を凝らせ、ということ。

そうすれば、きっと自分にとって本当に大事なものが見えてくる。

あとは、押してダメだった自分、引いてダメだった自分も、それもまた自分だと認めること。その失敗や成功、後悔や希望なんかも全部ひっくるめて、再出発しようとするときに、本当の意味で、相手との健やかな対話の関係を築けるのではないか。

漠然とそんなことを考える今日このごろです。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。