さて、連休中なので久しぶりに旅の話を書いてみたいと思います。

僕は、旅先でその土地の「神社」に出向くのが大好きです。

そのほか神として祀られているものがある場所や、町の小さなお祭りの様子なんかを見に行くのも旅先の好きな時間の過ごし方のひとつ。

このときに宗派というのは特に関係なく、神も仏もごちゃまぜになった神仏習合してしまった「民間信仰」なんかを見に行くのも本当に大好きです。

むしろ、そのようなもはや原型をとどめていない信仰のほうが個人的には好きかもしれません。

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でも、こういう話をすると、なぜか信心深いと思われたり、スピリチュアルやパワースポットが好きな人間だと思われがちなんですが、個人的にはそのような認識はまったくありません。

いや、もちろん、そのような側面、つまり自分には決して理解できない境地が存在しているのだという「畏敬の念」があることも間違いないことではあるのだけれども、それ以上に「何が生きるうえで必要なのか」「何が人間にとって本当に大事なものなのか」ということを、淡々と観に行って、現地で確認している感覚が非常に強いです。

これは、たとえとしてあっているのかどうかは定かではないのですが、現代で言うところの「マーケット調査(市場調査)」みたいなイメージに非常に近いんですよね。

日本全国や世界各地のショッピングモールや繁華街を見に行くことが文字通り「ヨコの市場調査」だとしたら、日本全国の八百万の神々が祀られている場所を実際に訪れてみるのは「タテの市場調査」をしている感覚なのです。

なぜなら、それはどちらも、その土地に暮らす(暮らしてきた)人々にとって生きるうえで「なくてはならないもの」であるはずだからです。

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で、そんなことを漠然と考えていたときに、ここ最近毎日のように紹介している『橋本治と内田樹』という本の中に出てくる、橋本治さんの「古事記」のお話に強く膝を打ちました。

橋本さんは、古事記の冒頭、神をドンドン産んでいく場面において、ひとは自分たちの存在に必要なものを「神」と見立ててきたのだろうと語ります。

以下、再び本書から少し引用してみたいと思います。

多神教でおもしろいのは、たとえば『古事記』のいちばん最初が好きなんです。『古事記』の最初って、イザナギとイザナミが神を産む。その前に神が出現するんだけれども、あの神の名前が全部おもしろい。山の神、海の神はまだわかるんです。川が海に入り込むところの、川側の神とか。つまり港なわけです。彼らは港を必要としているから、必要とするものに全部細かく神を存在させていくんです。神がいるということは必要だということです。いちばん最初に家の敷地を守るための 塞 の神が出てきて、家を作るための盛り土の神があって、家の神があって、というふうにやっているから、「ああこの人たちは自分たちの存在に必要なものを、順序立てていちいち神として作っていったんだ」と。多神教の具体的な実際性みたいなものが見えたような気がして。宇宙の始まりから始めるというのを、中国からとってきた格好付けみたいな、日本人って序文を作るのが好きだから的なところからはじまって、結局自分の必要なものに一つずつ神様というものを存在させていく。そこのところがとても感動的だったんです。
一番最初に必要だから神様を存在させる。ちゃんと自分たちの生活に合わせて、終焉を広げていくんです。「初めに光があった」とかというんじゃないんですよ。


これは、とってもおもしろい解釈ですよね。僕は本当に目からウロコが落ちました。

そして、自分自身が日本全国で、神の軌跡を辿るなかで漠然とやってきたことというのは、まさにその土地に暮らす先人たちがそこに積み重ねてきた想いや実利みたいなものが、間違いなくそこに顕現しているなと感じ取っていたからんだろうなあと。

自分たちにとって関係ないものは、決して祀らない。逆に言うと祀られているものは、何かしらその土地において生きるうえで欠かせない、実利があったからこそ、そこに「神」がいるのだと思います。

だから、時空を超えたタテの市場調査をして、その土地における本当の豊かさは何であり、生きるに必要なものなのかを確かめるためのそんな観察をしたくて、旅をしている感覚が強くあります。

ゆえに、僕からすると、神社に行くのも、現地のイオンモールに行くのも、ほとんど同じようなレイヤーに存在する旅の行程なんですよね。

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この点、名前をつけるということは、その対象物に「名宛する価値がある」ということであり、その名前による「区別」が人間にとって重要だということのはずですからね。このあたりは、ソシュールの言語学みたいな話にも似ているかもしれません。

きっと、日本の八百万の神々における「神」概念というのは、西洋のそれとは異なり、本当にそれ以上でも以下でもないような気がしています。

たとえば、現代においても、それは何一つかわらずに若者たちが新たな存在に対して「神」と呼んでいるものも、きっとすべてそうなんです。

その瞬間、その世代に生きる人々のために必要なもの。

一方で、そのほとんどが数年すれば消えてなくなっていくわけです。当然ですよね、時代も変化するし、人間側だって変化しますから。

実際10年前に、若者たちを中心に人々が、アーティストやコンテンツに対して「神」と呼んでいたものは、今ほとんどが忘れ去られて、その記憶の土地のようなものさえ残っていないはず。

逆に言うと、10年経過してもなお聖地巡礼のような土地として、何かしらその「神」概念が残っているコンテンツは、本当にすごいことだと思います。

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で、更にもっと言うと、日本各地の神社やその土地に伝承として残っている八百万の神々というのは、2023年現在でさえ、まだしっかりとそれが残っているわけです。何十年も何百年も、下手すれば何千年も、残ってきた。

これって、本当にすごいことだなあと思いませんか。

それだけ長い間、生きるために必要なモノ・コトとして人々に捉えられて、大事に祀られてきたわけですから。

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少なくとも一代で考えられたものとは、わけが違うわけです。

逆に言うと、そこにあるものを本当の意味で僕らが“論破”できない限り、絶対に塗り替えちゃいけないものでもある。

どうしても僕らは、一つの価値観、特に古めかしい価値観を、何かとてもひ弱なものだと捉えてしまいがちですが、その背後には、たくさんの先人たちや死者たちの影があるわけです。

それを、現地のみすぼらしいおじいちゃんが、ひとり主張している古びた意見であり、若い世代が意気揚々と、新しい主張によって論破して塗り替えて良いものではないと、僕は思います。

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そして、だとすれば、それは間違いなく人間が生きる上での「豊かさ」を象徴するもの、その一つの要素になり得ることは間違いないと思うんですよね。

それ自体が、本当に自分自身にとって必要なものかどうかは別としても、です。

この点、現代を生きる僕らは「豊かさ」を都会的な消費文化における「贅沢」と混同してしまいがちです。

でも、贅沢と呼ばれていても、豊かでないものは山ほど存在するし、逆に贅沢でなくても豊かなものも、この世にはたくさんあるかと思います。

「贅沢=豊かさ」だという誤解というのは、本当にここ数十年の話に過ぎないわけですよね。

そのためには、贅沢とは異なる豊かさ、先人たちが遺してくれた真の豊かさ(≒神)を僕は見に行きたい。

そして、それはきっとこれからまた新たに見直されてくるはずです。つまり、「これからの豊かさ」と出会うために、僕は日本全国の神々の信仰を観に行っているんだと思います。まさに温故知新というような。

そしてこればっかりは、本当に現地に直接訪れてみないとわからない。どれだけGoogle Mapのようなもので映像として体感できて、これからVRのようなもので、圧倒的にリアルに体感できたとしても、それらでは代替できないものがある。

逆に言えば、ほかのものでは決して代替できないからこそ、その土地において「神」として名前をつけられて、ほかでもなくその場に、祀られたのだとも思います。そしてそれが現地の山や川、岩倉や御神木など、その土地にローカライズされていればいるほど、本当におもしろい。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、旅をするときの何かしらの参考になったら幸いです。