スペインの宿に着いて、近所のスーパーで買い物をしていたとき、「あっここは千葉だ」とふと思った。

こぶし大じゃ収まらない巨大ジャガイモも、キャベツの代用品みたいな緑の野菜も、見た目から美味しくなさそうな餃子も、容赦無く日曜日に閉まっていることも、会計のシステムも、あらゆるものが日本と違うけど、スーパーで買い物をして、そこそこ美味しいものを作って食べて、誰かと話したりして、作業をして、本を読んで寝るのは、千葉での暮らしとあまり変わらない。千葉にいたことあんまりないけど。

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実際、スペイン語どころか、決して謙遜ではなく英語も怪しいから、とても簡単なことでつまずいて焦ったりする。だけど、「言語と文化が違うから全然わからねぇ〜」と思ったとき、果たしてそうなのだろうかと立ち止まった。

そもそも、初めてのことへの慣れというものはある。たとえ日本だって、初めての場所に行くときには、戸惑ったり、焦ったりする。だけど、慣れていくと、いつの間にか平気になり、さらに時間が経つと、いつしか代わり映えしないと飽き始める。「違い」のほかに存在する、ただその場でじっくりと待つように適応していくことも、きっとあるんだろう。

「全ては慣れだ」と言うつもりはない。経験したからといって、何事も通用するとは思っていない。だけど、慣れというのは何なのだろう。言葉や背景が異なっていても、共鳴したり、活動したりできる瞬間がある。そのような共鳴があると嬉しいのだけど、「あぁもっと言語ができたら完璧なのに」と、ないものねだりをしたりする。

違いを知るのは発見の連続で、疲れるけど、確かに楽しい。でも、「スペインと日本はこんなに違う」という観点"のみ"に焦点を当て続けるのは、あんまりしたくないかもなぁって思った。

むしろ、根底に共通するものはあるのだろうかと思いたい。そして、その上で確かに違いがあると思うのならば、そこから生まれてきたものを見つめておきたい。そして、歴史が積み重なった文化も、その人をその人たらせる旋回的な背景も、蔑ろにしたくない。ぐるぐると巡っているものは何なのか、何を受け取っているのか。簡単に判断しないのは大変なことなのだけど、"それでも"という先を見たい。

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出発前に、「制度というのは必ず生まれた理由があり、だからこそ歴史から探ってみたい」という話を聞いた。自由を侵害するような制度には、反抗心ばかり抱いていたから、「いかに生み出されたのか」「そもそも自由とはどういう状態か」から探るという観点は思い付かなかった。そして、それは世界に対する態度として美しいなぁと、思いがけず感じてしまった。

準備をたくさんしたおかげか、ぬるっとスペインで生活できている。うっかりレベル初級者なので、想定外がやはり怖くて。ただ、それでも起こりうる想定外に対して、少しだけ笑えそうな気がする。入国審査で念のためという書類を用意し忘れて、「強制送還になるかも」と本気で心配していたら、滞在目的もろくに聞かれないまま、入国のスタンプを押された。誰かが「問題は問題と思わなければ問題にならない」と言っていた。その通りかもしれない。「ミス」と呼ばずに、「うっかり」と呼んでみる。

まずは家を探して、住民登録をしないといけない。家探しって、どこでもめんどくさい。無事に決まるまでは、忍耐と不安が付き纏う。いや、決まった後も不安は続くだろう。静かに寝て、好きなペースで人と話したりして、穏やかに暮らしたいだけなのに、それすら難しいときがある。

時差ボケでずっと眠い。宿の構造的に、部屋にほとんど太陽光が入らないのに、20時過ぎまで外は明るいからなのか。夜に外を歩くと、頭がふわふわしてくる。馴染もうとする頭と、抵抗するような身体の反応に戸惑う。

でも、何ひとつ状況が整っていないときでも、「あぁ嬉しいなぁ」と思いがけず感じてしまう瞬間があって、「なんだこれは!」となるときがある。これからどんな家に住むのか、何が始まっていくのか、楽しみだなぁと確かに思う。

恐れは想定外に陥ったとき、自身の素直さを覆い隠そうとする。だけど、いつだって、ままならないまま、時間は流れ、はたらき、ぐるりと旋回するように生きていく。人々は螺旋のような軌跡を辿る。孤独も同じではないか。孤独という螺旋を巡って生まれた言葉は、剥がれ落ちるように書きつけることで、恐れや人々と共存していく道を紡いでいくのだと思う。「ままならず螺旋する」は、はたらくことと書くことを繋げる自身の試みであり、恐れや人々と共に生きていくための探求の記録である。


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生搾りのオレンジジュースマシンって、スペインにしかないよな〜と思っていたら、千葉の神社の境内に置いてあったのを思い出した。想定外すぎた。