昨夜、Wasei Salonの中でヴァージニア・ウルフの『自分ひとりの部屋』の読書会を開催しました。
https://wasei.salon/events/17c4176cd8e3
その読書会の中で、参加者のゆっこさんが、語ってくれたことがとても深く印象に残っています。
「この本を読んでいる時間そのものが、なんだか自分ひとりの部屋にいる時間みたいでした」と。
それを聞いた瞬間、自分の中で、これまで自分が書いてきたいろいろなことが一気につながっていくような気がしました。
ちょうど、昨日書いたブログ「反応なんていくらでもしてやるから、反応ばかり取りに行くな。」もまさにそのひとつ。
読者の沈黙を打ち破ろうとして反応されやすい言葉ばかりを選んでいるうちに、今度は書き手本人のなかにある沈黙のほうが、いつまでも破られないままになってしまう。そんなようなことを、昨日たまたま丁度書いていたんですよね。
で、その日の夜に地続きで開催されたのが、この読書会でした。
今日は、昨日の続きのようでもあり、僕が今大事だと思っているメタファーとしての「自分ひとりの部屋」について書いてみたいと思います。
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まず、ヴァージニア・ウルフが書いた『自分ひとりの部屋』といえば、有名なのは、女性が小説を書くためには「500ポンドと自分ひとりの部屋」が必要だ、という話です。
この言葉は、何度読んでも、本当に強い素晴らしいアジテーションだなと思います。
書きたいものを書くためには、やっぱり確固たる条件がいる。お金も、部屋も必要だし、それが邪魔されない世間との一定の隔たりや時間が必要。
「才能があれば、どんな環境でも書ける」みたいな乱暴なことは、絶対に言えません。
実際、書きたいことがあったはずなのに、生活や日銭を稼ぐことに追われているうちに書けなくなってしまった人を、僕はこの15年の中でたくさん見てきました。
家族の世話や仕事に時間を奪われて、自分の声を聞く余裕を失ってしまった人もたくさんいるし、そもそも自分が何かを書いていいんだと思うことすらも、できなかった人もたくさんいる。
そう思うと、ウルフが言っている「500ポンド(500万円程度)と自分ひとりの部屋」って、まったく贅沢な話ではないはずなんですよね。
むしろ、自分の声がかき消されないための、かなり切実な最低条件のことなんだろうなあと思います。
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ただし、ここからが僕の思うほんとうの厄介なところでもあって。
「500ポンドと自分ひとりの部屋」が大事だと言われると、今度はすぐに、「自分にはお金がないから、自己表現できない」「自分には部屋がないから、本当の自分にはなれない」みたいな話のほうに流されていってしまう。
でも、それもまた違うよなあと思うのです。
その最低条件さえ整わなくても、書ける人はいる。
でも、それらがないせいで書けなかった人も、きっとその背後に無数にいるわけです。
この両方を、同時に見つめないといけない気がするんですよね。
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昨夜の読書会では、最初にみなさんに「初めて自分ひとりの部屋を手に入れたときの話」を語ってもらいました。
ひとり暮らしを始めた頃のこと、実家の中で自分の部屋をもらった日のこと、シェアハウスの個室や深夜まで開いていた古民家カフェ、仕事場の一角などなど、本当にいろんな「部屋」の話が出てきました。
それらを聞きながら、ぼんやり思っていたのは、「自分ひとりの部屋」というのは、必ずしも「物理的な個室」のことだけを指しているわけではないのかもしれないなあ、という点です。
もちろん、物理的な部屋が大事じゃないとは言わない。誰にも邪魔されない場所や安心して考えられる場所、そういう場所はやっぱり必要だと思う。
でも、それと同時に、部屋というのはたぶん、「自分の心の声をちゃんと聞ける場所」のことでもあるような気がしたんですよね。
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つまり、自分のなかにふっと浮かんできた言葉を、そのまま静かに眺めていられる時間と場所。そういう時間もまた、その人にとっての「自分ひとりの部屋」になり得るんだろうなあと。
そう考えると、ゆっこさんが「この本を読んでいる時間そのものが、自分ひとりの部屋にいる時間だった」と話してくれていたのも、なんだかものすごく腑に落ちるんですよね。
そして、不思議だったのは、そのことが、ひとりで本を読んでいるときよりも、十数人で読書会をやっているときのほうが、かえってよくわかった、という点です。
ひとりになるために、みんなで読む。
矛盾しているようだけれど、昨夜の読書会で起きていたのは、たぶんそういうことだったような気がしています。
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また、ここで、以前読んだ内田樹さんの本のなかの話を、ふと思い出していました。
内田さんは、以前もこのブログで紹介したことがある『自由より自在に生きるー愉快さと葛藤の哲学ー』という本の中で以下のような話を語られていました。
「消費行動を通じて自己表現をする」というのは、言い換えると、 お金がない人は自己表現することができない ということです。 今の若い人たちは、「自分はまだ『本当の自分』になっていない」という不全感を覚えている人が多いです。それはバブル期の若者と比べると、端的に可処分所得が少ないからだと思います。消費活動を通じた自己実現ができないので、自分が本当は何者であるかを他者に承認させることができない。お金がないので、私は本当の私になれない。若者たちが本当にそう思っているとしたら、本当に気の毒なことだと思います。
この話と、ウルフの「500ポンドと自分ひとりの部屋」って、最初は近いところにあるように見えるんですよね。
どちらも、お金や条件がないと自己表現がしづらい、という話だから。
でも、よくよく見ると、たぶんここはまったく違う。
消費社会におけるお金は、どうしても「自分を演出するためのお金」になりやすいんです。いい服を買って、いい場所に行って、いい部屋に住んで、いい経験をして、それを他者に見せつける。
そうやって「私はこういう人間です」と、相手に証明していくためにお金が使われる。
でも、ウルフが言っていた500ポンドとは、たぶんそういうお金ではないんですよね。
それは、自分を演出するためのお金ではなく、 むしろ、自分を他者の価値基準に合わせて演出しなくて済むためのお金。
言い換えると、他人に見せるためじゃなくて、自分の心の声をちゃんと聞くために必要なお金。
本当の自分になるためのお金じゃなくて、「本当の自分になれていない」と思わされ続ける状態から、少しだけ距離を取ることの重要性について、ずっと語ってくれている。
僕は、ここがこの本のいちばん大事なところなんじゃないかなあと思っています。
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部屋についても、たぶんまったく同じことが言えるんだろうなあと。
「ひとりでいられる個室」ではなく「他人の声に部屋を占拠されないための部屋」。
ウルフが本当に書こうとしていたのは、たぶんそういう種類の概念やメタファーとしての「部屋」のことだったんじゃないか。
逆に言えば、お金や部屋がないことによって、現代を生きる僕らは一体何が奪われてしまうのか。
それは単なる機会でも、場所でもなく、自分の声を自分のものとして聞く力が奪われるんだと思います。
怒りや恨み、社会からの評価への怯え、生活の不安や世間からの声、そういう外部から訪れるものに、心の部屋がだんだんと占拠されていってしまう。
500ポンドと自分ひとりの部屋というのは、自分の声を、そういった他人軸のもに対して、決して明け渡さないための、最後の防波堤のような場所なのかもしれないなと。
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で、ここまで書きながら、昨日のブログと今日書いているこの文章とが、自分の中でだんだん一本の線でつながってきたような感覚があります。
昨日は「世間からの反応という外側の声に、自分を明け渡すな」と僕はブログに書きました。
そして、今日この場で書いていることは、たぶん、「お金や部屋という外側の条件にまで、自分を明け渡すな」ということなのかもしれません。
「反応がないから、自分の言葉は存在しなかったのではないか」と思い込んでしまうこと。
「お金がないから、本当の自分にはなれないんじゃないか」と思い込まされてしまうこと。
このふたつは、表現は全然違っていても、根っこのほうでは結構つながっている気がするんですよね。どちらも結局、自分の存在を、外側の何かに先に明け渡してしまっている状態を指しているわけなので。
外側の何かが整ったときに、ようやく本当の自分になれる。そう思わされてしまうことそれ自体が、たぶん、いちばん危うい。
ウルフはそれを僕らに必死に伝えようとしてくれているし、僕も、その考え方には心の底から賛同します。
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じゃあ、改めてWasei Salonという場は、一体何のためにあるのか。
昨日のブログでは、Wasei Salon内におけるスタンプは「あなたが沈黙を破ったことを、私はたしかに見届けました」という合図なのだ、と書きました。
がしかし、昨夜の読書会を経て、もう少し言葉を足すなら、Wasei Salonは、「ひとりひとりが自分の部屋を見つけ直すための場所」でもあるのかもなあと思っています。
Wasei Salonは、誰かに個室を与える場所ではない。もちろん500ポンドも直接は与えられない。
でも、ひとりひとりが「自分の部屋はここにもあった」と気づけるような場所ではあり続けたいなと思うのです。
それっていうのは、自分の心の声を聞き直すための場所であり、しかも、それを「ひとりでやれ、自己責任だ」と突きつけない場所でありたいなと。
ひとりになるためにこそ、みんなで読む。
これって本当に言葉にすると矛盾しているように見えるんだけれど、Wasei Salonでやってきたことって、結局のところ、ずっとこういうことだったのかもしれないなあと、昨夜の読書会を通して、改めて強く思いました。
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まさに「群れずに、群れたい」の話なんかも、見事にここにつながるなあと思っています。
ブッダも「犀の角のように、ただ一人歩め」と語りつつ、同時に共同体の重要性も語ってくれている。
そして、その矛盾しているような営みのなかにこそ、僕がWasei Salonでずっとやりたかったことの輪郭みたいなものが見えてくるなあと。
これもすべて、いつも真摯に読書会に参加してくださるみなさんのおかげです。
これからも引き続き、みなさんの「自分ひとりの部屋」を見つけていけるように、このWasei Salonという場自体も丁寧に耕していきたいと思います。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。
