今日、Twitterでこんなことを書きました。


もちろん、これはかなり乱暴な言い方をしているのは自分でも理解していて、日本人が全員こう、中国人が全員こう、というような話をしたいわけではないんです。

ただ、自分が北京で2年間暮らしてみて、働いていたリアルな体験なんかを踏まえてみても、やっと自分なりに腑に落ちたひとつの整理の仕方でもあったりします。

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思うに、日本人は、目の前の相手に敬意を払っているようでいて、実はその人自身をあまり見ていないところがあるんじゃないか、と思うことがあるんですよね。

見ているのは、その人ではなくて、その場のほう。

たとえば、神社に行けば、自然と声を落としますし、鳥居の前でも一礼をしてしまう。

あれって別に、目の前にいる誰かの人格を尊重しているからやっているわけではなくて、そこにある「場」のほうに姿勢を正しているイメージに近いんだと思います。

現に、管理者が常駐していない神社に対しても、他の神社と同様の身振りをしてしまうのが、僕ら日本人の挙動なわけですよね。

つまり、日本人は、権威に頭を下げているようで、実際には、場に頭を下げている。

だから、日本人の礼儀正しさというものは、必ずしも相手に対するリスペクトとは限らない。

場の秩序を保つために、礼儀正しくしている。それが、日本人の礼儀の正体なのではないか、と真剣に思います。

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で、そう考えてみると、少し前にけんすうさんがXで書かれていた話も、自分のなかですごく腑に落ちる感じがありました。

日本に住んでいる外国人の人と話していると、日本は人種差別が少ないように見えるらしい、と。

というより、そもそも人種という概念自体がかなり希薄で、あまりそこに関心がないように映る、と。

一方で、公共マナーや場の空気に関しては、異常なほど厳しい。そこを守れない人は、途端に嫌がられる。

逆に、日本語を話して、日本人っぽい所作をして、日本人が好むような振る舞いをしてくれる人は、国籍や肌の色に関係なく、かなりすんなり仲間として迎え入れられる。

この話は、たしかにそうだなあと思うんです。

日本社会は、人種をほとんど気にしていない。でも、人を見ているわけでもない。見ているのは、その人がこの場における作法を守れるかどうか、ただそれだけ。

だから外国人であっても、日本人っぽく振る舞える人は受け入れられるし、逆に日本人であっても、場を乱す人はものすごく嫌がられる。

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つまり、日本では、「何者であるか」よりも「この場にどう適応するか」のほうが、はるかに大事なことなんですよね。

ここまでは、たぶん日本社会の美点として語ることもできる話だと思います。

人種や国籍で最初から人を最初から排除せず、場を大切にしてくれる人なら、誰でも仲間として受け入れる。

たしかに、それ自体は悪いことではないけれど、でも、ここからが少し怖い話になってきて、今日このブログを書こうと思った一番の理由も、まさにここからです。

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日本社会は、おそらく「あなた自身」を受け入れているわけではないんです。

あなたがこの場に適応してくれているあいだに限って受け入れているだけ、なんじゃないか。

ここを取り違えると、けっこう怖いことになる気がするんですよね。

日本は寛容な国というよりは、「場に従ってくれる範囲の異質性」にだけ寛容な国、と書くのが正確なのかもしれない。

ファッションや趣味に対して、わりと寛容な理由もきっとここにあると思っています。ただ、その異質性が場の秩序のほうに触れた瞬間、急に空気が変わる。「ちゃんと空気を読んでください」と。

この「空気を読んでください」という言葉は表面はやわらかいんですけど、よく考えてみるとかなり強い言葉だと思うんです。

実質的にはほとんど命令であって、しかもその命令の中身は「あなた自身である前に、この場にふさわしい存在でいてほしい」という圧力だったりもする。

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で、ここで思い出したのが、茂木健一郎さんと山口周さんの対談本のなかで語られていた「世間と社会」の話でした。

日本人は、信号無視をしないくらい法令遵守には厳しい。なのに一方で、コンプラ違反や不正会計みたいな事件は、なくならない。

なぜか。それは、結局どちらも「世間」のほうを優先しているからだ、という話だったんですよね。

信号を守るのは、社会契約や法の理念を尊重しているからじゃない。まわりの目があるからであって、この場で「ちゃんとしていない人」だと思われたくないからだったりする。

不正会計のほうも、構造としてはまったく同じなんですよね。法律上は悪いし、社会的にも間違っている。そんなことは当事者もみんなわかっている。

それでも、うちの会社では昔からこうだった、ここで自分だけ正論を言えば場を乱すことになる、というふうにして、不正のほうに否応なく巻き込まれていってしまう。

要するに、日本人は社会に従っているのではなく、世間に従っている。ここは、自分のなかでもかなり大きい発見だと感じています。

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日本人にとって、社会というものはどこか遠い場所にある気がします。その証拠に「社会」という言葉は、福沢諭吉が翻訳して、明治以降に誕生した言葉。

ちなみに、ここでいう社会とは、西洋近代社会が生み出した法や人権、制度理念など、そういう抽象的なものをさしています。

でも、それに対して、世間はもっと近いし、具体的なわけですよね。家族や会社や学校、地域や業界、近所や友人関係などの界隈感。

そこにいる具体的な人たちの目と、そこで共有されている暗黙のルールと、そこで「普通」とされている振る舞いのほうが、日本人にとっては圧倒的にリアルだったりするわけです。

だから日本人は信号を守るし、同時に不正会計もするわけで、どちらも世間に従っているだけなのだとしたら、矛盾ではなく、むしろ激しく一貫している、ということなのかもしれません。

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で、この補助線を引いてみると、夫婦別姓や同性婚mフェミニズムをめぐる議論も、少し違った角度から見えてくる気がするんです。

ああいう話題が出てくると、僕たちはどうしても「差別意識があるかどうか」のほうを問いたくなる。

同性愛者を差別しているのか、女性を見下しているのか。外国人を排除したいのか、と。

でも、おそらく当事者本人たちは、本気で「差別なんかしていない」と思っている場合が多い気がするんですよね。むしろ、自分のことを、ごく善良な市民だと本気で思っている。

ただし、この国では、これまでこうやってきた。だから、できればその秩序のほうを乱さないでほしい、と思っている。

差別しているつもりなんてまったくない。ただ、世間を守っている。それだけ。

ここが非常にやっかいなんですよね。

日本における差別は、おそらく憎悪としては現れにくいはずで、多くの場合、それは「秩序の維持」としての正義感で現れるわけですから。

「あなたの存在が許せない」ではなくて、「みんなが困るから、配慮してください」であって、「差別したい」ではなくて、「普通にしていてほしい」になる。

でも、その「普通」という言葉が、誰かをじわじわと苦しめていたりする。

言い換えると、差別意識がないからこそ、結果的に差別的な秩序を強要してしまうジレンマ。そういう構造が日本にはあるんじゃないか、と。

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悪意があるなら、まだどこかで自分の加害性に気づく余地もあります。

でも、自分はただ場の秩序を誠実に守っているだけだ、という意識でいるとき、人は自分が誰かを踏みつけている可能性に、なかなか自分では気づけない。

むしろ、自分のほうが被害者のように感じてしまったりもするわけです。こっちはただ普通にしているだけなのに、と。なんでそんなに怒られなきゃいけないのか、と。

悪気はなかったのに、最近はなんでもかんでも差別やハラスメントと言われる、まるでアイツらはクレーマーみたいだ、と。

この感覚は、すごく日本的だと思うんですよね。社会に対しての人権の申し立てが、日本ではどうしてもクレームに見えてしまう。

なぜならそれは、明確に世間を乱すから、です。

せっかくみんなでうまくやっていたのに、なぜあなただけ、自分の痛みを言葉にするのか、もっと空気を読め、と。

みんな世間に従って生きている以上、それぞれに苦しい思いをしているのだから、痛み分けが当然じゃないか、と。

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でも、ここで決定的にズレているのは、人権とはそもそも、世間の空気を守るためのものじゃない、ということだと思うのです。

人権というのは、世間のなかでずっと黙らされてきた人が、「社会」というある種の壮大なフィクションの中で、ようやく異議申し立てをするための人工物だったりする。

私は足を踏まれて傷ついている、この「普通」は私にとっては普通ではない、この場の秩序は私の沈黙によって成り立っている、ということを言葉にするためのもの。

だから、人権は元来、構造的に必ず「世間」を乱す。世間を乱さない人権なんて、たぶんこの世に存在しないんですよね。

人権とは、いつの時代も世間にとっての異物なんだと思います。だから日本人は、なんとなくそれを毛嫌いしてしまう。

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つまり、「お前の内心なんか知らない、足を踏んだ時点でアウトだ、悪気があったかどうかではなく、実際に誰かを踏んだかどうかが問題なんだ」というのが、西欧の近代的な社会の感覚だと思うんですけれど、日本人は、ここで必ずこう言い返したくなる。

「いや、悪気はなかったんです、差別するつもりはありませんでした、そんなふうに受け取られるとは思いませんでした、この場ではみんなそうしてきたんです」と。

つまり、内心の善良さを自ら差し出して、責任のほうを薄めようとするわけです。

ただし、差別意識(悪意)がなかったことは、差別が起きていないことを意味しない。

ここが、日本人にとっては本当に理解しづらいところだという気がしています。なぜなら、日本人は差別というものを「内心の悪」として捉えすぎているから。

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ここまで書いてくると、当然、自分にも返ってくる問いがあります。

僕はWasei Salonというコミュニティを運営している人間であって、この場を丁寧にととのえ続けたいとずっと思ってきました。

それ自体は、いまでも間違っていないと思っています。

ただ、ここまで考えてきた流れのうえで、僕が守りたいと思っている「場」は、いつのまにかただの「世間」になっていないだろうか、と。

これは、自分にとってかなり怖い問いだったりします。

なぜなら、場をつくる人間は、ほとんど必ず、その場を世間にしてしまうところがあるから。

そして、その世間の「色」こそが、社会の「文明」に対して、大切にするべき世間の「文化」なのだと叫んでしまう。

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コミュニティというものは、放っておけば、たいてい世間になるし、それは、僕がやっていることも一切例外ではないと思います。

だから、場をととのえるということは、ただその世間を美しく維持することではないはずです。

むしろ、その世間がいま、誰を黙らせて成り立っているのかを、何度も疑うことのほうなんじゃないか、という気がしています。

「この場を乱さないでほしい」と思ったときや「普通にしてほしい」と思ったその瞬間に、自分が本当に守ろうとしているものは、いったい何なのか、ということ。

人なのか、社会なのか、それとも、ただの世間なのか。

この問いを持ちつづけられるかどうかが、これからのコミュニティにとっては、かなり大事なところなのかもしれないと思っています。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。