最近、『THE WEALTH LADDER 富の階段』という本をオーディオブックで聴きました。
https://wasei.salon/books/9784478121368
ベストセラー『JUST KEEP BUYING』の著者の続編で、タイトル通り、資産形成の戦略について書かれた本で、著者自身がどうやって資産を築いてきたかが丁寧に綴られていくような内容です。
前作同様、とても説得力のある内容で、なるほどなあ、と思いながら聴き続けていたのですが、ふと本題とはまったく違う部分で、気持ちがグッと持っていかれた。
それが「ブログ」にまつわるお話です。
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著者が2017年に自身のブログを立ち上げて、毎週コツコツと記事を書いていたころの話が本書の中では語られてあります。
そして、当時の彼にとって、いちばん精神的に辛かったのは、批判されることでも、誰かに嫌われることでもなかったらしく、何の反応もないこと、ただただ続く沈黙のほうだった、と。
少し本書から引用してみます。
ネットの世界で新人ブロガーとして活動を始めたとき、誰も教えてくれないことがある。それは、あなたの記事を気に入らなくても、誰もひどいとは言ってくれないということだ。記事が面白くないと思われたら、それだけ。何の反応もない。
ブロガーにとって、拒絶は憎しみではなく沈黙だ。冷たく、厳しく、思いやりのない沈黙。耳をつんざくような沈黙だ。
作家の故エリ・ヴィーゼルの言葉にもあるように、「愛の反対は憎しみではなく、無関心」だ。コンテンツをつくったことがある人なら誰でも、このことを知っている。拒絶されるダメージの大きさを理解し始めるからだ。
これは本当にそうだなあと。
散歩しながら聞いていたのですが、ついつい立ち止まってしまい、そこからスマホにメモをする手がとまりませんでした。
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この点、僕らはブログを始めようと思い立つと、一生懸命何かを書いて思い切って清水の舞台上から飛び降りるような気持ちで、投稿ボタンを押すわけです。
でも何も起きない。いいねもつかないし、コメントもこないし、誰かに届いたのかどうかすらもまったくわからない。
このときのしんどさは、直接内容を批判されたときのしんどさとは、まったく別物です。
批判が来るのは、まだこちらの存在が相手のなかに届いている証拠でもある。憎まれているということは、まだそこに関係があることを、明確に示しているわけですから。
『幸せになる勇気』の中でも、大人の関心をひこうとして、あえて憎まれようとする子どもの話が書かれていましたが、まさにあんなイメージです。
でも耳をつんざくような沈黙は、そうじゃない。
自分の言葉が世界に届いたのか、それとも最初から存在しなかったのか、それすらもわからない無慈悲さが、そこにはある。
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もちろんご多分に漏れず、僕自身も15年近くブログを書き続けてきたなかで、これは何度も何度も体験してきました。
そしてこの15年のあいだに、自分のまわりにも、この反応のなさに耐えきれずに、書くことそのものをやめていった人たちを、本当にたくさん見てきたんですよね。
書きたいことはたしかにあったはずなのに、いつのまにかブログの更新をやめてしまったひと。
「向いてなかった」とか「忙しくなった」とか、表向きにはそういう言い方で離れていくひとが圧倒的に多いのだけれど、その奥にあるのはたぶん、この耳をつんざく沈黙の辛さに耐えきれなかった、ということなのだと思います。
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ただ、ここまでは「反応がないのは辛い」という話であって、それはそれで本当のことなんだけれど、僕のなかにはもうひとつ、まったく逆の感情も同時にあります。
書き手としての僕は、たしかに反応が欲しい気持ちもわかるし、沈黙は怖い気持ちもよくわかる。
でも、書き手も経験した読み手としての自分は、書き手に対して、以下のように「思うこともあるんですよね。
「反応なんていくらでもしてやるから、だから、反応を取りに来るな。
あなたが本当に書きたいと思うことを思う存分書いてくれよ、お願いだ」と。
これはちょっと乱暴な物言いなんだけれど、かなり本気でそう思っています。
というのも、反応がほしいあまりに、反応されやすいことばかり書くようになってしまった人を見ていると、本当に切なく悲しい気持ちになってしまうからなんです。
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世間から共感されそうなこと、具体的にはお金の稼ぎ方や、人間の根源的な欲望や欲求に訴えかけてバズりそうなこと、アルゴリズムに好かれそうなことを書きはじめる。
「これを書けば褒めてもらえるだろう」と先回りして書かれた文章の数々。
そういう文章は、たしかに反応はそれなりにつきます。でも、不思議なことに、その人自身からは、だんだん遠ざかっていってしまう。
「読者の沈黙」を打破しようと、世間の顔色ばかりうかがっているうちに「書き手本人の中にある沈黙」のほうは、いつまでもずっと破られないままになってしまう。
それがほんとうにもったいないし、僕にはなんだか本末転倒に思えてしまう。
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そして、読者に求められる自分を演じ続けるうちに、自分の声がだんだんわからなくなっていき、最終的には、鬱になったり自滅的に振る舞ったりするようなひとたちを数え切れないくらい見てきました。
言い換えると、反応の多さや収益の多さは、「本当に書きたいことを書ける」ということを一切何も保証してくれないわけです。
むしろ、その反応こそが邪魔をする場合さえあるんです。
バズることで、より深い絶望や沈黙のなかに閉じ込められてしまうということが、現実にある。
皮肉な話なんだけれど、これは僕が現場で見てきた経験を通しても、ほんとうに強く確信していることのひとつです。
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じゃあ、一体どうすればいいのか。
どうすれば人は、反応に依存しすぎず、でも沈黙にも押しつぶされずに書き続けられるのか。
僕がここ8年間ずっと考えてきて、試行錯誤してきたのは、たぶんずっとこの問いだったんです。
Wasei Salonというコミュニティを少しずつ育ててきたのも、結局そこに行きつく話なのだと思っています。
Wasei Salonでは、誰かが何かを投稿すると、けっこうすぐにスタンプがつきます。それは、古参メンバーの投稿でも新メンバーの投稿でも関係がない。
ただ、絵文字スタンプが、ぽつんと押されることが多い。
これって、外から見たら、なんでもないことに見えるかもしれない。「いいね」と何が違うの?とも思われてしまうかもしれない。
でも、これは僕のなかでは、まったくの別物ですし、これこそが大事なことなんですよね。
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なぜなら、そのスタンプは、評価ではないんです。「いいね、共感したよ」と褒めるためのものでもない。
そうじゃなくて、
「あなたが沈黙を破ったことを、私はたしかに見届けました」
という、それだけのための合図なんだと思っています。
長文コメントだと、書く側も返す側も、どうしても身構えてしまう。「ちゃんとしたことを言わなきゃ」とお互いに思ってしまう。また、書いた本人も他者から一方的に評価されたように感じてしまうところがある。
でもスタンプひとつなら、もっと手前のところで、「ここにいるよ」と伝えることができる。言葉になる前の反応、評価になる前の応答ができるわけです。
それくらいの気軽さが、両者にとって一番ちょうどいい気がするんですよね。
そして、そのスタンプを押す主体は必ず人間じゃないといけない。AIでは何の意味も持たないわけですから。
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ここまで書きながら、以前、内田樹さんの『勇気論』という本に関して書いたブログのことを、ふいに思い出しました。
そこで僕は内田さんの「自分のヴォイス」という言葉を引用しました。
自分のヴォイスというものは「小さな声で、おずおずと語り出される」ものだ、と書かれていた。「言い淀み、黙り込み、前言を撤回し、同じ話をちょっとずつ言い方を変えながら繰り返す」もの。
だから、それを聴く側は、「忍耐づよく、じっと言葉が生成するのをみつめなければいけない。急がせてはならない。結論を求めてはならない」と。
今思えば、これとまったく同じことを、僕は「(ブログを)書く」という場面でも考えていたのかもしれません。
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語る場面における「請け売りの言葉」や「ストックフレーズ」と、書く場面における「反応されやすいこと」「共感されそうなこと」って、たぶんほとんど同じものだから。
どちらも、その人自身のなかに起源を持たない、よそから借りてきた言葉。
そして、それらを一旦全部脇に置いてもらうために必要なのが、語る場面では、黙って相手の語りだそうとすおずおずした言葉に耳を澄ますことだとしたら、書く場面ではたぶん、「スタンプひとつのような、急かさない反応」なんじゃないかと思う。
つまりWasei Salonのスタンプというのは、書き手が「自分のヴォイスで書く」ためにこそ、ある気がするんですよね。
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ただ、こういう話をすると、「やさしいだけの場所」とか「ぬるい場所」、「承認し合うだけの場所」みたいな印象を持たれてしまうかもしれない。
でも、僕がつくりたいのは、そういう場所ではまったくないんです。
むしろ、かなり厳しい祈りや願いに近いんじゃないかとさえ思っています。
反応なんていくらでもしてやる。
だから、わかりやすい反応を取りに来るな。
それよりも、あなたが本当に書きたいことを書け。
観客の沈黙ではなく、あなた自身の沈黙を破れ、話はそれからだ。
そう語っているわけですから。
もっと言い換えてみると、「こちらは必ず受け止めます。だからこそ、あなたも一切ごまかさないで書いてほしい。反応されやすいことではなく、自分の奥にあるもののほうを書いてほしい。うまくまとまっていなくてもいいから。でも、自分の沈黙だけは、自分の手で破ってほしい」そのようなわりと厳しい要求なんですよね。
でも、きっと共同体とは、書き手を甘やかすためにあるのではなくて、書き手が自分をごまかさないためにある場所なのかもしれない、と。
僕は最近、本当に強くそう思うようになりました。
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逆に言えば、オープンの世界においては評価やバズを狙うなら、美人投票で構わないわけです。
自分の中から出てきたほんとうの言葉よりも、他人が求める甘美な言葉をつらつらと並べ立てていれば、それだけで周囲からは評価されるし、仲間内にも入れてもらえる生ぬるい世界。
ただ、もはや、それさえもAIが担うようになってしまったわけだからみんな困っているわけだけれども。
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で、僕がなぜここに、これほどまでこだわるのかと言えば、これってたぶん、本当の意味での自己実現と深いところでつながっている気がするからです。
自己実現というと、なぜだか「有名になること」「お金を稼ぐこと」みたいに、外側の指標やものさしで語られがちなんだけれど、僕はそれは明確に違うと思っています。
自己実現というのはきっと、自分が本当に書きたいことを、自分の声で書けるようになること。
そして、それを細く長くでも、人生を通して続けていけること。それくらいの、地味なことなんじゃないかと思います。
そして、そのためには、逆説的なんだけれども、ひとりの強い意志だけでは、たぶん足りないはずで。
Wasei Salonは、そういう場所でありたいんですよね。
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バズるための場所でもなく、稼ぐための場所でもなく、ひとりひとりが、自分の沈黙を破るための場所として、常に優しく厳しい場所であり続けたい。
丁度8年前の以下のツイートにも書いたように、世間の声ではなく、自分の心の声に対して敏感であって欲しい。
またひとつ、自分がコミュニティを運営し続けている理由、みなさんの何を本当の意味で応援したい、支えたいと思っているのかが明確になったような気がしています。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。

