先週末、Wasei Salon内で行われた打ち合わせの中で、

「〇〇を、1〜10で表すと、いくつですか?」

と、アンケート項目によくあるような質問を繰り返す機会がありました。

そのときの回答の一つに「数値で表すと、真ん中になるけれど、真ん中じゃない、5がある」という回答があり、

この表現には、心底衝撃が走りました。

まさに、「それ!」と思ったからです。

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思うに、この国の先人たちはきっと、この感覚の重要性を言い表すために、「中庸」や「習合」という言葉を用いてみたり、「二項同体」や「絶対矛盾的自己同一」と表現してみたりしたのでしょう。

また、禅や華厳経で言うところの「一即多、多即一」もそれに当たるのかもしれません。

これは西洋的な汎神論の概念ともまた違う。

先日改めて読み返した鈴木大拙の『禅と日本文化』の中に、 以下のような一節が書かれていて、とても印象に残っています。

ー引用開始ー

禅匠が一が多にあり、多が一にあるという時、一なり多なりいうものが存して、それぞれ一方が他方のなかにあるという意味ではない。一が多のなかにあるという意味がはっきりせぬと、禅は汎神論だと想像される。が、禅では一といい、多というものが相互独立しているものとは認めぬのである。「一即多、多即一」というのは、それだけで絶対の事実を完全に叙述したものとして理解するべきである。それを分析して、また概念的に構成すべきではない。月を見て月と判れば、それで十分だ。

(中略)

禅者にとってはいつも一即多、多即一である。二つのものはいつも同一性を持っていて、これが「一」、これが「多」と分けるべきではないのである。仏者の常套語でいえば、万物の姿は真如そのままである。真如とは無である。すなわち、万物は無のなかにある。無よりでて無にはいるのである。真如は無であり、無は真如である。

ー引用終了ー

つまり、そもそも不可分なのです。しかし、どうしても私たちは言語や数値に置き換えて「ソレ」を理解したがる。

さらに言えば、人間を超えて、AI(コンピューター)に、この分節した世界のことを判断させようとしているけれどと、AIがこのことを理解できる日は果たしてやってくるのでしょうか。

同じ人間であっても、民族が異なれば理解しにくい感覚にも関わらず、です。

ただ少なくとも、この国でしばらく暮らしてみたことがある人は意識、無意識関係なく、なんとなくそんな感覚を理解できる素養があるはず。

その素養こそが、この日本文化を作り上げてきたわけです。

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本来、私たち人間は、言語にする(世界を擬似的に分節化する)ことによって、そこにある種の「虚構」をつくり出し、コミュニケーションを円滑にして、お互いに協力できる環境を生み出して進歩発展してきた。

でも今や、その言語や数値を過信し過ぎて、言葉にできない(分節化できない)ものは、そもそもこの世界には存在しないのだという判断(前提)になってしまっている。

とはいえ、私たちが日常的に言い淀んだり、うまく言語化できなくてもどかしい体験が多々あるように、私たちは間違いなく言語以上の世界に生きていることは間違いないのです。

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言語や数値にすべて落とし込めると過信して、それが世界の行く末を決めつつある世の中に生きることの怖さ。

でも、それは既に起きてしまった未来でもあり、そこに立ち向かっていかなけれればいけないことも、もう間違いありません。

私たちがそんな世界に立ち向かっていくときに、個人としてはどんな態度が必要で、集団としてはどんな共同体が必要なのか。

そんなことばかりを考える、今日このごろです。

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