毎日ボールに触っていないと感覚がわからなくなるように。毎日出社していたからこそ、身体がざわざわと動いてくる。これを習慣と呼ぶのかもしれません。
間隔が途切れるほどに習慣が生まれ変わるのなら、新しい習慣の方に明るい目線を向けてやればいいだけのこと。
以前よりも「noteを書く」ことにおいて、敏感に、慎重になっているのが、不思議なのです。ホームグラウンドなはずなのに。
取り戻すように。いや、塗り替えるように。過去ではなく、あくまで目線は未来へと。
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100ptマーケットで実践しているものの、いつも「武器とは何か?」という問いにぶち当たります。そこで出た答えがタイトルの通り「“ことば“ そのものが武器だ」でした。少なくとも今日は。
▽ 「あなたの武器づくり」お手伝いします!⚔(オンライン作戦会議)
https://wasei.salon/blogs/574a4be20a4b
自然とこぼれ落ちた言葉は、相手を傷つけてしまうかもしれません。するすると舌触り良く走り出した言葉は、テンプレばかりで無感情かもしれません。
例えば一年の間で立てる打席が決まっていたとして、一打席でも「適当に打てばいいや」などと思うでしょうか?
言葉は無限に、自由に表現できてしまうからこそ、無差別に際限なく突き刺さってしまう。例えば、一年の間で使える言葉の数が制限されていたら、もうすこし丁寧に向き合えるのでしょうか?
最近、様々なジャンルの本を読んでいて気づいたのは、「“ことば“ はメッセージであり方針なのだ」ということ。
読者に向けたメッセージであり、日記だって自分に向けたメッセージである。一つとして、おざなりにしていいことなんてありません。
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そんな風にして日常生活に向き合ってみると、会社内で使うチャットツールの“ことば“、お客さんとやりとりするメールの“ことば“ そのすべてを見る目が変わったのです。
メッセージ。義務ではなく権利であり願望。相手のお願いごとに答える、こちらのお願いごとに答えてもらう。そのどれもが体温を宿した“ことば“ なのだと。
だからこそ、相手の気持ちを限りなく想像し、もらって嬉しい言葉を届ける。まるで手紙を送るかのように。
武器なんておこがましい。
身体の、心の、自分の一部。存在であり人格であり証明。誰もが平等に持てるからこそ、自分と“ことば“ との最適な距離感を向き合っていきたいと思いました。
ソーシャルディスタンスばかりを考えるのではなく。