土日やすっきりとしたときほど、不思議と「書くこと」はしていなくて、「はて、いつもはなぜ書いているのだろうか?」と考えてしまった、はっちーです。
そんな中で自分なりに出した答えは「書いた後の世界に出会ってみたいから」でした。自分の描いた通りの世界ではなく、導かれていく予期せぬ新しい世界。
もしご興味ございましたら、月曜日の箸休めとしてお読みいただけますと幸いです。
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“変わりたい” と思った瞬間に、すでに “変わり始めている” ように。
“旅の計画をしている” 段階からすでに、“旅は始まっている” ように。
けれど、変わりたくないのはどうでしょう?
旅に出たくないのはどうでしょうか?
何も始まらず、世界は一向に変わりはしなくて。それもそうで、変わらない世界を願い続けている結果だと思うのです。
「“書くこと” は向き合うこと」。
日々の中で抱いた怒りや疑問、哀しみや苛立ち、そんな言葉にできない感情は、どうにかして言葉にすることで、初めて向き合うことができるのではないでしょうか。
書いた瞬間にそれらがきれいさっぱりなくなるような、都合のいい話ではなくて。
善も悪もごちゃまぜになって、怒りに苛まれていた自分をなだめてみたり、哀しさから最も大事なつながりへのありがたみを噛みしめたり。
まるでもう一人の自分が、自分を客観的に見つめ直すように。
しかも向き合うたびに、彼は姿形を変えて。
どのようにして消化すればよいのかわからないからこそ、向き合ってみたいのです。
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振り返ってみると、書きたくなったのは、誰かを求めるのではなく、自分で自分を律しようと決めた日からなのではないか?と思いました。
向き合わずにいられなかった。書かずにはいられなかった。閉じこもってばかりの世界から自分の手で光を掴むためには。
「“書けないとき” は、自分自身に向き合いたくないとき」
理解できず、認められず、許すこともできず、自分と向き合いたくないとき。
書けるはずもないでしょう。
書けるはずもないでしょうか?
書けるかどうか?なんて、書いてみないとわからないのに。
家から一歩足を踏み出せば、それはもう旅で。
何かを発すれば、それはもうあなたの言葉で。
書いた瞬間に、それはもうあなたの感情の一部なのだから、書きながら向き合ってみればいいと思うのです。誰だって初めはきっとそうなのですから。
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「自分と向き合ってみること」
書くことに必要なのは、もしかしたらその姿勢だけなのかもしれません。
長文、失礼いたしました…。お読みいただいた方にも、何かしらの考えのヒントになりましたら幸いです。