最近の企業のオウンドコミュニティの流れを見ていると、「SNSでの自社の情報発信は埋もれてしまうから、生身の人間だ、ファンを発信の道具に変えてしまおう!」
そんなふうに、コミュニティを作って、コミュニティメンバーを拡声器代わりに使おうとしてしまう挙動をよく見かけるようになってきたなあと思います。
でも「コミュニティメンバーを拡声器代わりにしない」ことは、とても大事なことだと感じます。
「SNSの時代、なぜ多くのコミュニティが『拡散』を求めるのか?」そのうえで、なぜ僕はコミュニティメンバーに『拡散してください』と普段から言わないように気をつけているのか。
今日はそんなことについて書いてみたいなと思います。
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この点、最近のオウンドコミュニティの流れって、コミュニティメンバーをすぐに広報担当みたいにしてしまうんですよね。もしくは営業担当。
「拡散してください、その代わり経済的だったり、優越的地位を与えて、インセンティブ与えますから」という話になる。
確かにその方法は一定数ワークするとは思います。実際によく目にしますし、それがトークンエコノミーのようなもののひとつの可能性だということも、よくよく承知している。
でも、本来コミュニティは、そうあるべきではないと思うんですよね。
むしろメンバーが自分の言葉で語り、それぞれの経験を通して、自らの価値を見出す場であるはずだと僕は考えています。
きっと、僕は過去に一度も、自らのコンテンツや制作物をメンバーに向けて拡散してください、と言ったことはないはずです。
メンバーさんが挑戦していること(クラウドファンディングなど)を一緒に応援しませんかと呼びかけたことは何度もあるけれど、こと自分の活動やWasei Salon自体を拡散してくださいなんて、ほとんど言ってこなかったはずで、それはまさにこのあたりに理由があります。
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もちろん、できることならエバンジェリストにはなって欲しい。
でも、ただの伝達者であっては欲しくないし、どのような場面であっても、自分の言葉で語ってほしいと願っています。
ここは地味にめちゃくちゃ大事な点だなと感じています。
既成のもの、自分が作ったものを「はい、あとはこれをコミュニティメンバーのみなさんで拡散してくださいねー!」はよくないなと。それだと、ねずみ講とほとんど変わらない。
でも、今はここが一番足元を見られやすくもなっている。「拡散している私、所属している私」を求めているひとが現代の世の中にはすごく多いから。
既に成功している大きなプロジェクトに参加して「やってる感」を出しやすい。その場に集まっている者同士が、相互評価ゲームのプレイヤーになりさがってしまうわけですよね。
孤独や孤立を恐れていて似たような目的や慰め合うことを目的にしているし、コミュニティオーナーからの承認もいただける。
でもそれだと、水商売に足を運んだときに得られる承認感覚とほとんど変わらないなと思うのです。
逆にいえば、どんな孤独や孤立、不安や恐怖があるのかを見事に見抜かれた結果として、それを差し出す構造を生み出されてしまっているわけでもある。
「自分自身と向き合うことから逃げたいでしょう?だったら、こっちにおいで」となる。
でも本当に大切なのは、
「自分が何を大事にしたいのかを、問い続けること」
だと思っています。
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この点、少し話はそれてしまいますが、Wasei Salonを運営していると、メンバーのみなさんから、「第三者にサロンを紹介しにくい!」と言われたことが多々あります。
僕自身も毎回、はじめましての人に伝えるのがむずかしいなあと思うから、言いたいことはとてもよく分かる。
そして、何かコミュニティや政治運動のようなものを生み出したければ、第三者に対して一言で説明できるキャッチーなフレーズを用意することが、セオリーだと思います。
所属しているメンバーや支援者に自分の言葉で考えさせちゃダメ。わかりやすい単語を叫ばせてあげたほうがいい。
勧誘するときに、本人が言葉選びに悩んでいたら終わりであって、それはマニュフェストの失敗になる。
でも、だからこそ、あえて一言で言い表せなくする、混乱してもらう、伝えにくいなって思ってもらう、それがものすごく大切なことだなと思うのです。
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言語化の失敗をして「えっ、それの何がいいの?」と目の前の相手から訝しがられる体験が大事だなと思うからです。
自らの身体感覚を通して確かに良いと感じている自分がいるのに、それを第三者に対してはうまく説明できない自分がいる。
その歯がゆさや葛藤のようなものが大切で、ものすごくいじわるな言い方かもしれないけれど、困った顔して「悔しいな」って思ってみても欲しい。
でも、そのときに自分の中にあるこの気持ちを他者にどうにかして言葉にして伝えたいと思う、ちゃんと考えようとする瞬間があったはずで、それが大事だよねと思うんですよね。
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きっと、ここまで読んできた方々の中には「じゃあ、やっぱりそれぞれが自分で考えることを大事にして、孤独でいいじゃないか」という話になるし、実際にそうやってコミュニティや共同体を毛嫌いしているひとたちも多いと思います。
自主自立のほうが大事であって、現代におけるコミュニティ文脈や共同体文脈なんて、所詮は現代の相互評価ゲームのカモにされているだけだ、と。
その意見も、言いたいことは非常によく理解できる。でも僕はそれはそれで非常にもったいないとも同時に思います。
同じコミュニティの文化感やそのスタンスが大事だと思う人たちが集い合うことによって、初めて生まれてくる場の空気も間違いなく存在するわけだから。
この、コミュニティ内に自然と生み出される雰囲気みたいなものは何ものにも代えがたいなと感じています。
言い方を替えると、これは一人では決して構築不可能な代物だと思うんですよね。
一人で素晴らしい家族をつくりたいと思っても、それが原理的に不可能であることと同じように、一人で素晴らしい社会やコミュニティもつくれない。
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逆に、お互いに敬意も配慮も親切心も何も持たずに、それぞれの正義だけを持ち寄ると一体どうなるのか。
奇しくも、先日のフジテレビの会見でそれが明らかになったかと思います。
全員が自分の正義をかざして、そこにどれだけ「人権配慮」という言葉が両方から飛び交っていても、人権配慮なんてものは一切立ちあらわれてこないわけですよね。
それぞれひとりひとりの優しさや親切心がなければ、どれだけ正義に満ちた言葉、最新のツールやスキルなど、その発信手段を持ち合わせていたところで何の意味もない。
むしろそうやって、自らの正義や最新ツールに溺れた人々の集いほど秩序は崩壊し、あんな場に行きたいなんて、よほどの野次馬根性があるひとだけだと思います。
ここに集うような人達とは、絶対に関わりたくないな、と気持ちを新たにするだけですよね。
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だから、場の雰囲気が、とても大事。
人権配慮は、正義として振りかざすものではなく、場として自分こそが守るんだというひとりひとりの矜持でしかない。
というか、これからは、もはや残っていく「価値」はそれだけ、だとさえ思います。
何かわかりやすいメッセージや言説じゃない。そんなわかりやすい言葉はもう圧倒的にAIのほうが得意になっていく。
そうじゃなくて、実際にそれを実践している場」「実際にそれが顕現している場」に価値がある。
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そして、そのようなコミュニティが常に、半オープンで開かれていること。
そこに混ざってみて、はじめましてのひとにも体験や体感をしてみてもらえること。
その実体験それ自体が、とても大事だなと思います。これは共同体的に集まっている場所に、実際に混ざってみてもらわないとわからない感覚。
そのコミュニティメンバー同士のあいだに立ちあらわれてくるものこそが、コミュニティの価値そのものでもあるわけですから。
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さて、最後に今日の話をまとめてみると、「拡声器型のコミュニティ」は簡単に承認を得られるし、SNS的な相互評価のゲームにおいても、優位に立てるわけです。
そして、企業や個人の宣伝ツールとしても、ものすごく有益だし、そこに現代はトークンなども絡めて、経済的にも効果的。
だからこそ、コミュニティ内で目立つこと・属することが目的化してしまう。
でも、「本来あるべきコミュニティ」は、それぞれが自分の言葉で語ること。
そして、体験を通じた価値創出の本義は、参加者同士の敬意と配慮がある場そのものであって、その場の雰囲気が価値を生みだす。
そこに勇気づけられたり励まされたりする中で、個々人の活動が活発化するということだと思います。
このような場作りをすること自体が、現代における本当のクリエイティブだと信じています。
このあたりの価値がうまく伝わっていると本当に嬉しいですし、これからもそのようなコミュニティをつくっていけたらいいなあと思います。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。
![鳥井弘文](https://image.osiro.it/pass/image_uploads/12213/images/small/torii_icon.jpg)
2025/01/29 21:00