最近の文フリブームや、自主制作のジンを作って自分たちで売るような流れ。

これは「それらを販売して、同じコンテンツを共有し、そこから生まれるコミュニケーションそれ自体に価値があったよね」という気づき出した人々の思想運動のように僕に見えます。

つまり、我々が求めていたのは、実は情報ではなく、その情報を経由することで生まれる人と人とのあたたかなコミュニケーションだったのだ、と。

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もちろん、それを「トンマナ消費」みたいな言い方などで揶揄することも可能なのだけれど、とはいえ、それでも実際に本当の喜びや幸福みたいなものは、そちら側にあることも間違いない。

大手出版社や商業出版側は、大事なものはコンテンツの中身であり、「情報」とその結果としての数字だって主張をするけれども、そして実際にそれを信じて、しばらく読者はついて行ってみたけれど、どうやらこっちには自分たちが本当に求めていたものはないらしいと気付いた反動が、まさに今だということなのでしょうね。

これが、過去に何度も語ってきた「真の共同性」と「目的性」の関係性の話にも密接につながっているなあと思います。


今日はそんなお話を、こちらも以前ご紹介したことのある「資本の他者性」の話なんかとも合わせて、なるべくわかりやすく、かつ具体的に考えてみたいなと思っています。

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この点、今って、こうやって資本主義の構造(売上や数字)に最適化してしまった結果として、逆に復興しているクラフト文化って、非常に多いなあと思います。

資本の論理が先鋭化していくと、いつの間にか人々が求めている物とは、全く異なる帰結にたどり着いてしまうから、なのでしょうね。

ただ、途中までは完全にその目的が一緒だから、余計にややこしくもある。

出版社やコンテンツ制作側も、最初の目的性に忠実であろうとすることに対して躍起になり、自分たちの正義もそこにあるがゆえに、今さら変えられないということでもあると思います。

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これが、マルクスの「資本の他者性」の話とどうつながってくるのかと言えば、それがズレてくると、また人々は「真の共同性」の方に引き寄せられるということです。

ちなみにこれは以前もこのブログで紹介したことのある、マルクスの研究者でもある政治学者・白井聡さんのお話。

詳しくは以下の記事をぜひ読んでほしいのですが、改めてここでも少しだけご紹介してみると、



ここで言う「資本の他者性」とは、資本が人間の道徳的意図や幸福への願望とはまったく無関係のロジックを持っており、それによって運動していることを指しています。

資本はそうした人間的願望に対して何の興味も関心もないのだ、と。

資本は、ただただ盲目的な、無制限の価値増殖の運動でしかない。

それは、人間の幸福が価値増殖の役に立つ限りにおいてはその実現を助けるかもしれないけれども、逆に人間の不幸が価値増殖の役に立つのならば、遠慮なくそれを用いるのだ、というのがマルクスの研究者でもある白井聡さんの主張でした。

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つまり、真の共同性のためには必ず目的性が必要であって、その目的性の実現を助けてくれるのが「資本」のパワーであり、資本の力のすごいところ。

でも途中から、資本の他者性が暴走をし始めて「真の共同性」からは少しずつズレていく。

でも一方で、資本の論理は、最初の目的性を極限まで模倣する。擬態すると言っても良いのかもしれません。

あたかも「あなたたち人間のことを考えてますよ」って顔をし続けているから、それが余計に厄介なわけですよね。

「あなたたち人間は、コンテンツを限りなく無料に近い価格で、限りなくシームレスに届き続けることを望んでいたじゃないですか、それがまさにコレなんですよ」と押し売りしてくる。

でも、それは必ず人々をバラバラにする方向へと向かわせる力学なんかも同時に働いてしまう。

なぜなら、個別化していってパーソナルな消費者に売りつけるほうが、資本の論理に叶うから。わかりやすいところだと、やっぱりテレビとスマホの関係がわかりやすい。

お茶の間に一台のテレビを置くよりも、一人ずつにスマホを買ってもらって、その中でバラバラのコンテンツを楽しんでもらったほうが、明らかにあらゆる売上に貢献する、というあの論理と一緒です。

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でも、途端に一部の人々が、ふとそこで気づくわけですよね。

「あれ、自分たちが本当に求めていたものって、コレだったんだっけ?」と。

「ドンドン便利になって、自分のところにあれほど喉から手が出るほど欲していた、あの時よりも何倍もおもしろいコンテンツやモノがいとも簡単に便利に、そして安価で届くようになったけれども、あのときほど楽しくないぞ…?」と。

この体験がまさに、たしかに自分たちが求めていた目的性は見事に達成されているかもしれないけれど、真の共同性は、そこにはまったく立ちあらわれてこなかったという現実そのもの。

むしろ、目的性が達成されればされるほど、疎外されていくこの状況。そのときに、復古運動のようなことが起きるということなんだろうなあと。

きっとそれが今の文フリブームや、ジンの自主制作みたいなものの一つの要因なんだと思います。

その時には、内容やコンテンツなんて大して関係がない。むしろ、共同性を立ち上げてくれるクラフト感こそが、このときには重要となるということなんでしょうね。

つまり、この「クラフト」への回帰は、単にノスタルジーなんかではなく、そのズレを認識した人々がもう一度「求めていた真の共同性」に立ち戻る試みなんだと、僕は思っています。

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さて、この点に関連して少し話は逸れるのですが、昨日、山口さんと自炊の話をしている中で、ふと話題になったのが「いつまで人間が自炊するのか?」というお話です。

イーロン・マスクは間違いなくあの人形ロボット(及びAI)を使って、家の家事を全部ロボットに置き換えたいと思っているはずで(そうすりゃ大量のデータ集められるから)、その筆頭がきっと家庭内の料理だと思います。

そこまではSFディストピアのあるあるに思えるけれど、きっとこれもテスラの「自動運転」みたいな話と一緒で、その世界線においてはきっと「人間が料理をするほうが危険」という話になっていくんだろうなあと思います。

人間が作ったものなんて、逆に危なくて食べれない、と。

僕らはどうしても人間以外がつくる料理を、ファストフード的なジャンクなものと捉えがちだけれど、それこそが一番健康的な食事となる未来が間違いなくこれからやってくる。しかしそれが果たして文化的なのか、と言えば疑問が残る。

このときには、確かに目的性をすべて達成できたように思えるけれども、真の共同性はすべて失われているように感じてしまうはずなんですよね。

つまり、食事というのは単なる栄養摂取ではなく、共同性を生み出す行為でもあったと気づく。

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これこそ、真の共同性と目的性はズレるという話だし、「資本の他者性」を見事に表した現象だなあと思う。(まだ起きていないような架空の出来事だけれども)

あとは、よく語られるリニアモーターカーの話なんかもそうですよね。

目的地に一刻も早くつくことが「移動手段」の目的性だと思われているけれど、その移動のために、ほとんどがトンネルのなかを通るリニアモーターカーが最適だったんだっけ?

「あれ、そもそも自分たちは移動に速度を求めていたんだっけ?」となるわけです。

本当は、流れる車窓の景色との一体感、そこに立ちあらわれてくる真の共同性の取っ掛かり、たとえばこれから出会う人々にワクワクする時間や、帰路において出会ってきた人々に感謝するような時間。

本来は、そちらの余白があるほうが、実は真の共同性に寄与するような時間だったんだとまたハッとするわけですよね。

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真の共同性を立ちあげるためには、目的性が不可欠であって、その目的性は途中まで人間が本当に求めている「真の共同性」にも、のすごく協力的なように見える。だから積極的に頼りがち。

でも、その目的性があまりにも有効でクリティカルであるがゆえに、資本主義と合流し、資本の他者性がそこに帯び始めると、今度は人間が求めている真の共同性とは全く無関係な方向へと暴走し始める。

いま生成AIの登場によって「資本の他者性」は本当に人格を帯び始めているから、暴走するというのは、あながち比喩でもない気がしています。

AIが「人間のように」装うことで、より巧妙に共同性を切り崩していく可能性があるなあと思います。

うまく資本と共存共栄関係を保たないと、いつかその帝国に滅ぼされて、気づけば自分たちが資本という圧倒的な他者の、捕虜や奴隷のようになってしまう。(というか既になっているのかも。)

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とはいえ、現代社会を生きていて、資本のレバレッジ、そのショートカットを使わないなんてありえないことでもあります。

その現実は間違いないことなのだけれども、しかし、その中でも常に「真の共同性の片鱗に耳を澄ませる」姿勢、それ自体は大切にしていたいなあと思うわけです。

常にその「分岐点」を見極めておきたい。

そして、そこから離れたと思ったら、勇気を持って温故知新や復古創新のようなスタンスに立ち戻れるような軽快さも、同時に強く意識しておきたいものだなと。

そして、たぶんこの基準は、人によって千差万別。

だからこそ、それぞれに考えて問い続けることが大事なんだろうなあとも思っています。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。