最近、若い人向けに書かれた本をいくつか読んでいるなかで、複数回見かけた「自分の言葉で語ろう」という呼びかけ。

現代のように、インターネットを開いた途端に「他人の言葉」がいくらでも自分の目の中に飛び込んでくる世の中であれば、これも当然のことだと思います。

そして、若い読者を中心に読者の側においても、自分自身が自分の言葉で語れていないという不安や負い目があるから、なおのこと、この言葉が刺さるのでしょうね。

特に、自分が好きなものをちゃんと推したいと願うときほど、その魅力をちゃんと自分の言葉によって丁寧に言語化したい願いが生まれてくるのだと思います。

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でも、僕がこの言葉をよく見かけるようになって思うのは、この「自分の言葉で語ろう」という言葉自体に罠や、呪いみたいなものがあるなあと。

だって、そもそも、この「自分の言葉で語ろう!」という言葉それ自体が、思いっきり他人の言葉なわけですから。

至るところで語られていて、何か自分で思案を繰り返して、やっとのこと紡ぎ出した言葉が、この「自分の言葉で語ろう!」だったというひとなんてまずいないと思います。

それよりも、ずっと後ろめたさみたいなものを抱えて生きてきて、誰かのストックフレーズを自分自身が喋らされているだけではないか、そんな不安や負い目みたいなものを漠然と感じ始めていていたところに、ちょうど声の大きい人や、読んでいた本の中にその言葉が出てきたということですよね。

その結果として「そうだそうだ!自分の言葉で語るのが、大事!」と、他人の言葉の受け売りで語り始めるわけです。

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じゃあ、どうすれば、自分の言葉を、ほんとうの意味で語ることができるようになるのか。

ひとつは、「自分の言葉で語る」という言葉のの起源を探ることだと思います。

具体的には「自分とは何か、言葉とは何か、語るとは何か」そうやって多くの人は当然だと考えて自分はすでに知っていると勘違いしていることを、ひとつひとつ「他人の言葉」を手がかりに、自己や世界を探求していく。

そのような作業の先にしか、自分の言葉なんてきっとみつかっていかないと思うんですよね。

このときには端的に、他人の言葉で書かれた価値ある本を読むことは、とても重要な手立てだなと思っています。特に古典的な作品、何十年、何百年と読みつがれてきた本に、触れてみることは本当にとても大事。そこには時代を超えて、人々の心に響く普遍的な何かが存在しているわけですから。

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その中で、まずは言葉の成り立ちなど、そもそもの部分を知ろうとすることは、非常に重要なことだと思います。

言い換えると、他人のつくりだした「型」を知る。しかもそれは表面的なものだけではなくて、歴史の中で、必然的に形作られてきてしまった「型」を知ろうとすること。

これは、もう何度も繰り返し書き続けてきたことですが、そもそも言葉を用いて考えている以上、僕らはすでに他人がつくったものの上でしか、考えることができないわけですから。

僕らは、他人がつくった言語からは逃れられない。

しかし、それは決して悲観すべきことでもなくて。むしろ、その事実を認識し、受け入れることで、より深い「自分の言葉」への探求が始まっていくのだと思います。

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さて、あともう一つものすごく大事なことがあるなと思っていて。それは、自分の人生、その生き方を見直してみるということです。

一般的に、この「自分の言葉で語ろう」という啓発において感化されている人たちを見ていると、自分の喋っている言葉以前に、自分の生き方それ自体に不安や恐れみたいなものがあるひとたちが反応しがちだなと思います。

言い換えると、世の中の「普通」や「当たり前」のような空気に流されているという実感があるときにひとは、「自分の言葉」という言葉を用い始めるようになる。

だから、見直すべきは、言葉ではなく、きっと生き方や働き方そのもののほうだと思うんですよね。

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この点、思い出されるのが、村上春樹さんのエッセイで、非常に興味深い話を書かれていました。

村上さんは、将来ものを書いて生活したいと考えている若い人から「文章の勉強というのはどうすればいいんでしょうか?」という質問を受けることがある、という話から語り始めます。

そして「文章を書くコツは文章を書かないことである」それはもっと具体的にいうと「書きすぎない」ということだ、と語るんですよね。

文章というのは「さあ書こう」と思ってなかなか書けるものではない。まず「何を書くか」という内容が必要だし「どんな風に書くか」というスタイルが必要であるのだと。

この村上さんの話における「文章」の部分を、今日の文脈における「言葉」と置き換えても、全く同様のことが言えると思うのです。

では「書きすぎない」中で、そこから具体的にはどうすればいいのか。以下『村上朝日堂』という書籍から少し引用してみたいと思います。

若いうちから、自分にふさわしい内容やスタイルが発見できるかというと、これは天才でもないかぎりむずかしい。だからどこかから既成の内容やスタイルを借りてきて、適当にしのいでいくことになる。
(中略)
たしかに文章というのは量を書けば上手くなる。でも自分の中にきちんとした方向感覚がない限り、上手さの大半は「器用さ」で終ってしまう。
それではそんな方向感覚はどうすれば身につくか?これはもう、文章云々をべつにしてとにかく生きるということしかない。
どんな風に書くかというのは、どんな風に生きるかというのとだいたい同じだ。どんな風に女の子を口説くかとか、どんな風に喧嘩するかとか、寿司屋に行って何を食べるかとか、そういうことです。


僕も日々文章を書いていて、この方向感覚のお話はとても共感するし、故にこれは本当に耳が痛い話でもあるなあと思います。

どのように生きるかはそのまま、どう書くかに直結するし、その逆もまた然り。自分の人生からしか、得られない方向感覚が確実にある。

だから、自分の言葉を探すことも本当に大事なことだと思うけれども、それ以上に自分の人生をまず生きてみることが、何よりも大事なんでしょうね。

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群れの中で、群れからはぐれないようにと、他人が決めた方向感覚に従って生きている限りは、自分の言葉なんてものが、本当の意味で獲得できるわけがない。

それは団体ツアーの旗について行っているだけです。自分の方向感覚は決して養われない。

言い換えると、人に合わせて生きてしまっている、そのような惰性的な行動によって自らが意識無意識関係なく満足できていないことが表出してくると、「自分の言葉を話していない」と思わせる、根本的な要因になっていると思うのです。

僕も、何かずっと自分自身がストックフレーズだけを語らされていてそれで周囲を納得させられていても「これはただ器用なだけだ、ただのハックだ」と思っていたときに、漠然と感じていた違和感というのは、まさにここにあったような気がしている。

もちろん、その器用さというのは、集団内を生き延びるうえでは非常に有益であり、ときに必須のスキルとして、求められる処世術的であることも間違いない。

でも、それを巧みに用いれば用いるほど、技に溺れれば溺れるほど、どこか自分の大事なものを犠牲にしているような感覚になってくると思うんですよね。

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日々の生き方や働き方の選択ひとつひとつにおいて、とにかく誠心誠意、生きるしかない。

その時には、周囲に対しての安易な忖度や、杓子定規的な優しさ、うわべだけの付き合いとかではなく、本当の意味で心からの実践を繰り返す、それがそのうち自らの「生き様」となって方向感覚を与えてくれるはずだから。

自分の言葉に出会いたければ、そのようにこれまで怯えて逃げてきた自分の生き方を見つけるために、群れからはぐれて歩みだすほかないということなんだろうなと。

そうすれば、わざわざ自分の言葉なんて意図して生み出そうとせずとも、自然と溢れ出てくる言葉が、まさにそれだと自他ともに認めるものになっていくはずです。

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ちなみに、村上さんはこのエッセイの最後を以下のように締めくくっています。

ひととおりそういうことをやってみて、「なんだ、これならべつに文章なんてわざわざ書く必要もないや」と思えばそれは最高にハッピーだし、「それでもまだ書きたい」と思えば──上手い下手は別にして──自分自身のきちんとした文章が書ける。


こちらも本当にそう。僕自身が、できているかどうかはまったくわからないけれども、この事実はとても大事なことだと思います。

そのためにも、まずは誠心誠意、生きること。そんなことを考える今日このごろです。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。