先日のブログで名指しで積読していると書いてしまったからには、ちゃんと読もうと思って、『HUNTER×HUNTER』の最新刊38巻まで、やっと読み終えました。
複雑すぎて、改めて本当にすごい物語だなあと。読み終えるのに、かなり時間がかかりました。
よくもまあ、こんなにも難しい物語をジャンプの編集部側が許すなと思ってしまうけれど、一方でTwitterなどでは連載が再開するたびに、毎回大盛り上がりですよね。
そして、難解すぎて理解の助けを求めてインターネットで検索すると、YouTubeなど解説動画がバンバン公開されている。
たった1本の動画で、230万回も再生されている動画なんかもあったりして、本当にビックリします。
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ちなみに、AIに聞いてみたところ、ハンターハンターのコミックの累計発行部数は8700万部だそうです。単純計算すると、1巻あたり約220万部ということになります。
つまり、コミックを買っている人のほぼ全員が、同じ解説動画を見ているという計算になるわけですよね。この数字を見てみると、なんだか合点がいくなと。
なぜハンターハンターはこれほどまでに複雑化していくのか?そして、なぜ読者はそれにちゃんとついていくのか?
今日は、この疑問について、コミュニティの視点から、僕なりに自由気ままに考えてみたいなあと思います。
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まず、一般的に考えれば、「物語の複雑化は、せっかくついた読者を離れる原因になってしまう」と思われがちです。
実際、多くの作品は読者のレベルに合わせて、適度な難易度を保っていますよね。
しかし、ハンターハンターが教えてくれるのは、「面白ければ読者は必死になってついてくる」ということなんです。
じゃあ、なんで僕らはそれに必死になってついていこうとするのか。言い換えれば、なぜ「面倒くさい、こんなの読むのやめてしまおう!」って挫折してしまわないのか。
その理由の一つは、単純に作品の魅力そのものもあると思います。
キャラクターの魅力、世界観の深さ、予測不可能なストーリー展開など、ハンターハンターには読者を引き付ける独自の要素が満載。
しかし、それだけでは説明がつかないことも、同時にあると思います。なぜなら、世の中にはもっとわかりやすくて、かつ面白い作品も今ではたくさんあるからです。
じゃあ一体何が違うのか。
そこには、やっぱり積み重ねてきた時間の信頼があるから、なんだと思います。結果をしっかりと出してきた長期連載だからこそ、なせる技なのだろうなあと。
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僕も含めて、読者の中には「この難解さにちゃんとついていけば、きっと驚くほど面白い世界が待っているはずだ」という確信がある。
これは、作者と読者の間に築かれた強い信頼関係の証。
もし仮に、これがここ数年で始まった連載の物語なら、たぶんすぐに挫折してしまっていたはずなんです。「確かに評判を聞く限りおもしろいのかも知れないけれど、自分はいいや、離脱しよう」ってなるはずなんです。
実際、『呪術廻戦』のような人気作品でさえ、その複雑化してく展開にキャッチアップするのが億劫になり、離れてしまったのが僕です。
それでも、ハンターハンターには。なぜ踏ん張れるのかと問われれば、長年にわたって作者及びその周辺の漫画文化から、受け取ってきた「贈与」みたいなものがあるからなのだろうなあと。
言い換えると、先に受け取ってしまったという、負い目があるからなんでしょうね。
ここまでついてきてしまったら、ちゃんと最後まで見届けないと、というある種の負い目みたいなものも働くわけです。
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また、このあたりからコミュニティの話に入ってくのですが、同様に周囲にも自分と似たような過去を共有して成長してきたひとたちもたくさんいる。これも非常に大きい。
この同期がいる感覚も、また挫折することを、いい具合に引き止めてくれる。いまこの難解さに立ち向かっているのは自分だけじゃないんだ、という心強さ。
その証拠に、解説系のありとあらゆるコンテンツは、明らかに同世代のひとたちがつくっているんだろうなあと思わされます。もういい大人どころか、おっさんです。
この驚くほどの手の込んだ解説動画の制作者たちの意欲もまた、もう受け取ってしまったからに、他ならないんだろうなあと思わせる熱量がある。
決して広告費につられてとか、そのようなタイプのコンテンツはないんだろうなあと思わされます。ハンターハンターには、本当に素晴らしいファンがついているなあと。
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このように考えてくると、ハンターハンターの複雑さは、意図的であれ偶然であれ、ファンコミュニティの形成に大きく貢献していることがわかる。
内容が複雑になればなるほど、考察や解説文化も同時に広まっていき、ファン同士が協力し合って、その複雑さを紐解こうと必死になる。
これは、近年の映画でも見られる現象だと思います。
複雑な構造を持つ映画ほど、解説や考察の文化が盛んになっていますよね、
現代のインターネットを基盤としたファンコミュニティ文化と、これらの複雑な作品は驚くほど相性が良いことは間違いない。
ただ、どんな作品でもこのアプローチが成功するわけでもない。多くの場合、複雑すぎる展開は読者や視聴者を離反させてしまうはずだからです。
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では、なぜ映画に関しては、それが許されるのか。
映画の特殊性というのは、映画館で一度見始めたら、基本的にはその場から離れないでいてくれるから、ですよね。
複雑なストーリー展開でも、ある程度はパッケージで、最後まで観てもらえる。
だから考察文化とも、非常に相性がいいのだと思います。
一方で、Netflixオリジナルなどの作品は、また異なるアプローチを取っている。例えば「地面師」のような作品は一気見したくなるほどの中毒性と、人を引き付けるためのありとあらゆる剥き出しの要素や、わかりやすさを兼ね備えている。
これは、視聴者がいつでも離脱できる環境に対応するための戦略と言えるのだと思います。
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じゃあ、なぜハンターハンターに至っては、離脱しやすそうな漫画というメディアでも、そんな複雑性の物語に持ち込めるかと言えば、それはやっぱり長期連載という信頼があるからですよね。
ここで、積み重ねてきた時間だけは決して裏切らない。
さらに興味深いのは、この複雑さが読者同士のつながりを促進している点なんです。難解な展開に直面すると、読者同士は、お互いに手を差し伸べ合うしかない。
言い換えれば、コンテンツを起点にして、自然とインターネットに流れてそこにコミュニティが形成され、お互いに助け合うようになるのです。
そして、それが読者同士の結び目や、結束力にもつながっていく。今のインターネット文化と非常に相性がいい。
これは言い換えると、物語が「共通の目的」を生み出してくれるわけです。まさにこれも疑似同期体験だなあと思います。
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で、ここで思ったのは、この「ついていく」という作業自体が、まさに仲間と協力するハンター試験をしているような状態なんだろうなと。
それこそ、見ず知らずの他の人間と協力しなければ、この物語を読解することができないという証でもあるわけだから。
そして、この共同作業の間の紆余曲折や喜怒哀楽が、この漫画の一番のメッセージなのだと思います。「仲間と協力して、その”過程”それ自体を楽しめよ」と。
主人公のゴンが、その父親にあたるジンから、世界樹の木の上で旅の物語を聞かせてもらうシーンが、この漫画の一つのハイライトだと思うのですが、まさにあのタイミングでジンが語っていたこと、そのものだなと。
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なんだか非常にメタっぽい視点になってしまいましたが、現代のインターネットを活用した「コミュニティ型のエンタメ」を考えるうえでも、これはものすごくおもしろいメタ構造だなと思いました。ただの推し活ともまた異なる。
最近の僕はほとんど追えていませんが、いつかちゃんと追いつきたいと思っている『ONE PIECE』などもきっと同じような構造を持っているのではないでしょうか。
「その結び目こそが、エンタメの持つ本来の力だろ」と言わんばかりに。
これは、以前もご紹介した、大澤真幸さんの「共同性」と「目的性」の話にも見事につながるなあと思います。
次の世代に共同性に到達させるために、擬似的な目的性を設定するための物語づくり。
それはストーリーの中でのハンター同士もまさにそうなっているし、実際にそれを読んでいる読者に対しても、そうなっているということなんだと思います。
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こういう導き方もあるのかと、本当に心底感心してしまいます。純粋にすごいなあって。
本当に到達して欲しいと思う読者同士の「真の共同性」のために、エンタメ作品が、その難解さを逆手にとって、現代の状況に合った新たな「目的性」を現実世界に作り出すというわけですからね。
そして、そういう物語ほど、きっと世代を超えて読まれるものにもなっていく。親子で一緒に読むものになって、子どもが挑戦し始めたことで、親もまた久しぶりに読み返す。
子ども時代には気づかなかったような新たな発見がそこで得られる。そして、お互いに語り合うためのコミュニケーションのきっかけにもなっていく。
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何にせよ、自分も生きている限り、その当事者として、完結する最後までついていくんだろうなあと思わされました。
やっぱりどれだけ積読していたとしても、実際に手にとって読んでしまうとしみじみと読んで良かったなあと思わされるから、本当にすごい作品です。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。

2024/09/12 20:50