最近発売されたトマ・ピケティ とマイケル・サンデルの対談本 『平等について、いま話したいこと 』を読み終えました。

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今さら改めて説明は不要かもしれないですが、トマ・ピケティは『21世紀の資本』で知られる経済学者で、マイケル・サンデルは『これからの“正義”の話をしよう』などで世界的に知られる哲学者です。

この本は、対談形式の短い書籍なので非常に読みやすいのですが、おふたりの叡智が同時に詰まっているような内容でもあり、とても素晴らしい対談本でした。

今日は、この本をきっかけに「現代人の市場を盲信する態度は、一体どこから来るのか?」という問いについて考えてみたいと思います。

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この点、近年、あらゆるものごとが「市場」の「お金」という尺度で、測られているようになりました。

それは「市場で何か一つの成功さえできれば、すべてが解決する!人生が変わる」と語るような言説なんかにも見事にあらわれているかと思います。

あとは、市場評価、すなわち多くのお金を稼ぐことや、市場の中における金融商品の価格上昇によって財を成すことさえできれば、それで全てが報われるという考え方なんかにもあらわれているかと思います。

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じゃあ、市場で大きな数字を達成することが「人生のすべてだ!」と信じているような現代的なこの発想というのは、一体どこから生まれるのだろうか?と。

本書の中で、この点に関して、とてもわかりやすい話が語られてあって個人的には目からウロコが落ちるような話だなと思ったので、以下で本書から少し引用してみたいと思います。

以下はサンデルの発言となります。

市場信仰がこれほどまでに歓迎されてきたのは、財の価値をどう評価するか、人々による経済や共通善へのさまざまな貢献の価値をどう評価するかという、異論や物議をかもす面倒な議論を民主的市民であるわれわれがやらずにすむ術を、市場が与えてくれるように思えるからではないでしょうか。ですから市場信仰というのは──これはそんな気がするというだけで、同意していただけるかどうかお訊きしたいのですが──価値や善き生の本質的概念にたいして中立でありたいという、ある種の自由主義的な願望から生じているということです。


この指摘には、大いに共感できるなあと思います。

多元的な社会では、財の価値や善き生の本質に関する人々の意見は、そう簡単に一致しない。

だからこそ僕たちは、そんな意見の対立を回避できる“装置”として、市場に救いを求めてしまうわけですよね。

つまり、もっとわかりやすく言い換えると、市場が本当に「価値中立」だとは誰も思っていなくても、「とにかくお金で測っておけばいい。そうすれば、民主的熟議をせずに済む」という誤解めいた期待を抱いてしまうのが、現代の市場信仰の根底にあるということです。

ピケティも、このサンデルの意見には同意をしていて、市場信仰の背景には「民主主義への怖れ、つまり議論や熟議への怖れがある」と述べていました。

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たとえば、最近ならトランプ大統領のミームトークンや、それに類似した一攫千金を狙うような投資案件に群がる人たちの行動が、非常にわかりやすい例だと思います。

彼らは「大きく当てないと、人生は変わらない」と言いながら、裏を返せば「市場で勝って、お金さえ手に入れば、人生は変わる」と信じ込んでいる素振りを見せる。

でも本当は、人生を変えるためには、もっと人間的な努力や、自分の内面との向き合いが必要不可欠であって、そんなことは少し人生を生きたことがある人であれば、誰もがわかっているはずなんですよね。

にもかかわらず、そこには目を向けたくないからこそ、「市場」という一つの尺度を追いかける。

「数字」で評価されているうちは、自分の内面や本来考えるべきことから目をそらすことができるわけですから。

言い換えると、答えがわからないからこそ「お金」というひとつの尺度に群がってしまう。

そして、多くのひとがそうするから、余計にそれが現実味を帯びて、信念化されていく。

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あとは、現代において一番希少なリソースは、貨幣でもゴールドでも土地でもなく、人々の「アテンション」であるという現実なんかもあるかと思います。

だから、市場評価としてのお金と同じぐらい「影響力」の増大を目指す人々が増える。そこに、市場価値との相関関係も見出されていく。トランプのミームトークンなんて、その最たる例だと思います。

でもそれは、すべて市場価格の話であって、そのものの「価値」とはまったくもって無関係なわけですよね。

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つまり、市場経済で「評価」される「数字」、それを必死で奪い合っているうちは内心では「考えなければいけない、向き合わなければいけない」と思っていることから逃れられるし、忘れていられる。

「これが現実だ、これこそが世界だ」と信じて、市場経済の中で一日、一日をやり過ごすことができる。

そして、哲学者たちが考えているような「善き生の本質」なんかは、机上の空論にすぎない。頭でっかちな議論だと否定をし、現実をよく観てみろよ、と言い放てる。

ピケティは、先ほどのサンデルの意見に同意したあとに「落としどころがわからないのが怖いのです。たしかに、われわれは落としどころがわかっていないかもしれません。」と語っていましたが、こちらも本当にそう思います。

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この点、少し話は逸れるのですが、最近読み終えたドストエフスキーの『地下室の手記』と、ヘンリー・デイヴィッド・ソローの『ウォールデン    森の生活』。

この二冊を、たまたま偶然同じタイミングで読み終えたのですが、まったくその主張のタイプは異なれど、両者はとてもよく似ている本だなあと思いました。

『地下室の手記』は小説ですが、両書き手ともに「孤独」と向き合い、大事なことに向き合いたいと願う人間が心を込めて書いたもの。それが「地下室」なのか、「森の中」なのかの違いにすぎないなとも思いました。

そして、ともすれば現代人からすると、どちらの本の主張も取るに足らないと思われてしまいがち。実際、僕も読みながら少し退屈を感じた部分もあります。

でも、逆に「コレだ!」と思ったんですよね。この退屈にこそヒントがある。

僕らはこういう話を極論だとか、取るに足らないもの、ともすれば「ルサンチマン」だと感じ取って敬遠し、余計に「市場経済」に傾倒していくんだろうなあと。

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また、最近は「国家とは何か」を改めて根本から問い直してみたくて、重たい腰を上げてやっとのごとくプラトンの『国家』を読み進めているのですが、

そこでは、ソクラテスが「正義とはなにか」や「国家とはどのようにあるべきか」そんな在り方について延々と語っていて、その内容も現代人から見ると、ものすごく助長的、恣意的に感じる部分もある。

「こりゃあ、若者を堕落させたことを罪を理由に死罪を言い渡されて、ソクラテスは死ぬ運命にもあるよなあ」とも思うんですが、でも、これも現代人だからなんだろうなあとハッとしました。ここがまさに、現代人の落とし穴。

今は多くの若者が、極端な意見を嫌う。現代の若者は、ありとあらゆる考え方を聞いた結果として、その中間辺りに自分の意見を落としたがる。

つまり、誰からも非難されにくい“ほどほど”を選ぶわけです。その結果として、余計に万人に共通の尺度として「経済だ、お金だ」となっていくわけです。

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でも、果たして本当にそれでいいんだっけ?ということだと思うんですよね。

『地下室の手記』の主人公のように、多少は荒ぽっかったり、やんちゃだったり、落とし所が見えなくても、自分にとっての「生」とは何かを問い続ける姿勢。

また、ソローの『森の生活』だって安易な都市の批判、そしてわかりやすい典型的な自然賛美であって、それは今読むとものすごく恣意的にも見えるけれど、でもそれぞれにそうやって「善き生の本質」を問い続けていたからこそ、現代まで残っている名著であり、現代においても多くの人たちに、今も影響を与えているわけです。

そこに答えなんてないし、「ソクラテスが語る国家論」のように、他人からみたらものすごく独善的にも思える場合であっても、自分にとっての「善い生き方とは」「倫理とは何か」に真正面から対峙すること、それこそが、いま大事なんだろうなあと思います。

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あまりうまくは言えないのですが、最近はそんなことを、すごく真剣に考えてしまいます。

何はともあれ、冒頭で紹介したサンデルとピケティの対談本『平等について、いま話したいこと』は、短いながらも現代社会の「市場信仰」に対する鋭い批判と、「善き生」「共通善」とは何かを自分なりに考えるための、きっかけを与えてくれる一冊でした。

なんとなく現代の風潮に違和感を抱いている方がいれば、この本を読んでみると「このモヤモヤの正体は何か?」に対して少しは腑に落ちるところがあるかもしれません。一読をオススメしたい本です。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。