最近、いわゆる「ローカル左翼」について、少し考えていることがあります。
2010年代の地方創生ブームで、都会や資本主義に反旗を翻し、地方で活躍していたひとたちが、団塊世代からの世代交代も経て、今、その土地の主導権を握る側になっている。
数年前までは、それでよかったと思うのです。
ただ、デフレやコロナ禍を経て、社会の状況も大きく変わってきた今、逆に、ローカル左翼が多すぎるよなあとも同時に感じる。
意外と、これからのローカルの未来の足を引っ張るのは、そんなひとたちなんじゃないかと。
都会での競争や、経済成長ばかりを求める社会に違和感を覚え、地方で別の暮らし方や働き方をつくってきた側の人々です。
そういうひとたちが、地域で力を持つようになったあと、これから一体何を選ぶのか。
そのことが多少気になってきたので、今日はこのブログの中で丁寧に考えてみたいなと。
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この点、ちょうど昨日「インターネットに居場所がないひとたち」という話を書きました。
インターネットに居場所がないひとたち。
現実社会に居場所がなかったひとたちが、ネットに自分たちの居場所をつくってきた。
ところが、ネットそのものが社会の中心になったことで、先に来たひとたちが強い側になり、その外側にまた、居場所のないひとたちが生まれているのではないか、と。
ローカルにも、それとまったく同じような構造があるように思うのです。
社会全体で見れば、自分たちは今も少数派なのかもしれない。でも、その土地では、何かを決めたり、誰かを評価したりする側にはもう十分なっている。
そんなひとたちが、これから何を始めるのか、どんな商売をこの地域でよしとするのか。その空気づくりの話です。
そういうことに、彼らの価値観がダイレクトに影響するようになってきている。
つまり、自分たちで居場所を手づくりしていた頃とは、もう、立っている場所がまったく違うんですよね。
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言い換えると、ルーキーとしての挑戦者側から、その地域の重鎮側に少しずつ軸足がズレてきている。そんな40代〜50代の方は多いはず。
しかも、これは、そのひとたちの活動がうまくいったからこそ、起きている変化でもあるわけですよね。
自分たちの考えに共感してくれるひとが増えて、実際に地域の仕事が生まれ、地域からも頼られる存在にになった。かつて思い描いていた未来が、少しずつ実現してきた証です。
だからこそ今、次の課題が訪れているのだと思います。
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もう都会に出て、大きな会社に入ったり、たくさん稼いだり、そういう生き方だけを目指さなくてもいいし、地方で小さく商いをしながら、身近なひととの関係や、日々の暮らしを大切にできること。
そういう選択肢を実際につくってきたことには、ほんとうにものすごく大きな意味があったと思うのです。
それは僕も「灯台もと暮らし」というメディアを通して、これでもか!というほどに伝えてきた自負があります。
でも、そこで暮らし続けるひとたちが増えていけば、そのひとたちがこれからも暮らしていけるだけの仕事や、次の世代に渡していける地域の仕組みも必要になる。
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たとえば極端な話、これからのインフレ時代に、働いてくれるひとに十分な報酬を払おうと思えば、今よりもっと稼がなければならないかもしれないわけです。
仕事を続けていくために、新しい技術を取り入れたり、外部の企業に力を借りたりする必要なんかも出てくるかもしれません。
そのとき、「それは自分たちが一度否定してきたものだから」と、最初から選択肢を閉じてしまっていいのだろうか、と。
地域で暮らしていけるひとを増やしたかったはずなのに、自分たちがよいと思えるやり方にこだわるほど、そこで暮らせるひとが限られてしまいます。
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きっと、ここで問われているのは、自分たちが一度否定したものを、もう一度取り戻せるのか、ということなのだと感じます。
ほんとうに実現したい未来のために、ある意味で、ちゃんと手のひらを返せるかどうか。
「手のひらを返す」と言うと、どうしても悪いことのように聞こえますが、
でも、現実世界のほうがうつり変わり、自分たちの立場も変わっているのに、以前と同じ答えしか出せないことにも、かなりの危うさがあるはずで。
一度否定したから、もはや絶対に舞い戻れない。そうやって、どんどん原理主義的になっていくと、自分たちが守りたかった地域の未来まで、閉じてしまう気がするのです。
そうじゃなくても、今はインバウンド観光客が激増したり、AIという第三の勢力も現れてきたタイミングなわけですから、それに合わせて、自分たちのスタンスも柔軟に変えていく時期のはずです。
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とはいえ、これが簡単なことではないのも、よくわかります。
都会や資本主義への違和感を共有したからこそ、出会えた仲間がいるはず。そのひとたちと一緒につくってきた仕事や場所が明確にあるわけですよね。
そこで認められて、初めて自分の居場所を得たひともいると思います。
そうなると、考え方を変えることは、自分ひとりの意見を変えるだけでは済まない。
「あのとき言っていたことと、違うじゃないか」
そんな言葉は、周りからも聞こえてくるだろうし、何より自分自身のなかから聞こえてくるのだと思います。
自分たちをつないできたものを、自分たちから揺るがすことになるのですから。
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でも、そこで一度、ちゃんと立ち返りたいなと。
僕らは、そもそも一体何が欲しかったんだろう、と。
地方で暮らすことも、小さく商うことも、外部の資本に頼らずにやっていくことも、それぞれに、ちゃんと理由があったはずです。
自分の暮らしを自分で選びたかったとか、身近なひとを大切にしたかったとか、あとは、生まれ育った土地で、これからも生きていけるようにしたかったなどもよく聞く話です。
その願いを実現するためにこそ、当時、自分たちが選べる方法を丁寧に選んだ結果、ちゃんと一定の成果が出てこそ、今がある。
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ところが、いつのまにか、その願いと方法が完全に切り離せなくなってしまうというジレンマが生まれてきている。
特に、その方法でうまくいった経験があると、なおさらです。自分たちが選んだ形式そのものが、欲しかった未来だったようにも思えてくる。
そこで暮らしているひとが、今、何を必要としているのかを見るよりも先に、なんです。
そこを固定してしまうことが、いちばん大きな罠なのだと思います。
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たとえば、自分たちで暮らしを選べるようになりたくて、都会の価値観から離れたのだとします。
そのあと、自分たちがつくった場所にやってきた若いひとが「もっと稼ぎたい、事業を大きくしたい、外の企業と組んで何かを始めたい」と言い出したら、どうするのか。
「ここは、そういうことをする場所じゃない」と言ってしまうのか。
実現したかった未来に近づいたはずなのに、そこで自分たちが、かつて嫌だった側の振る舞いをしてしまうわけです。
そのとき、そのひとが何を実現したくて、そう言っているのかを、ちゃんと聞けるだけの開かれた耳をもつこと。
自戒を込めて、これは、ほんとうに気をつけなければいけないことだと思っています。
しかも、本人たちは最初の理念を大切にしているつもりだからこそ、気づきにくい。
自分たちが自由になるために選んだ形式を、あとから来たひとにも求めるようになったとき、その形式が果たしている役割は、もう大きく変わっているのだと思うのです。
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この話は、先日書いた「魂」の話なんかにもつながっています。
形式や物質がそのまま残ることと、そこに宿っていた魂が受け継がれていくこと、その二つは、必ずしも一致しない。
同じ看板を掲げ、同じ言葉を使い、同じようなやり方を続けていても、最初にそこで大切にしたかったものが失われてしまうことは往々にしてあるわけです。
AI時代は、魂を売って続けるよりも、魂を残したまま凍結しておく。
逆に、外から見たらずいぶんガラッと変わってしまったようでも、最初の願いは、ちゃんと生き続けていることもあるはずです。
魂を守るためにこそ、現実を正しく見定めて、変わっていかなければならない。
一度、都会や資本主義から距離を取った経験なんかも、そのときにこそ生きてくるのだと思います。
一度離れたことで、わかったことがあるはずで、その経験を持ったまま、もう一度、お金や成長や外部の力と付き合い直してみる。まさに僕が繰り返し主張し続けている「裏の裏」のような感覚です。
自分たちがほんとうに大切にしたいことを実現するためにこそ、必要なものを、もう一度使えるようになること。そこに、これからのローカルの未来がかかっている気がしています。
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ただ、長く続けてきた形式には、一方で大切にしたい思い出があるんですよね。
だから、形式を手放すことだって、ちゃんと悲しいわけです。
「もう時代に合わないから変えればいい」と、そんなふうに簡単には済ませられないと思います。
以前の魂の話で考えていた、終わることの悲しさや、弔うことの痛みから目を背けないということも、きっとここにつながるのでしょうね。
大切だったからこそ、その形式の役割が終わったことを認めるのは純粋につらい。でも、その痛みを避けるために、これからそこに来るひとたちにも、同じ形式を守り続けてもらうわけにはいかない。
あの頃の選択に意味があったことは、これから別の選択をすることで、なくなってしまうわけではないのですから。
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もちろん、この塩梅というのは、ほんとうに難しいなと思います。
そこに、あらかじめ決まった正解はないのだと思います。
自分たちの主張が一貫していることよりも、大切にしたかったひとや暮らしが、今どうなっているのか。そのことを見続ける必要があるのだと思います。
自分たちの理想どおりに変わったからこそ、次の課題がまた必ず新たに訪れる。そのたびに、最初に何を求めていたのかを、もう一度自らに問い直せるかどうか。
欲しい未来をつくるというのは、たぶん、そこまでマルっと含めて引き受けることなのでしょうね。
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僕自身、コミュニティをつくり、こうして日々、自分の考えを言葉にしている側の人間です。
過去に書いたことも、続けてきたやり方も、ずっと積み重なっているし、積み重なってしまっている。だからこそ、この話は、当然のように自分にも見事に返ってきます。
自分が始めたものが、自分の想定していなかったかたちに変わろうとするとき、それをちゃんと真正面から見ていられるのだろうか。
前に否定したものが必要になったとき、以前の自分の発言、その一貫性を守ることばかり考えてしまわないだろうか、と。
原初の魂を守るためにこそ、変わらなければならないときが必ずある。
そのときに、自分が大切にしてきた形式を手放すことも含めて、ちゃんと選べる自分でいたいなあと思っています。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。
2026/10/08 19:28
欲しい未来のために、かつて否定したものを取り戻せるか。
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