先日、Xでこんな議論を見かけました。

https://x.com/Etron_fou/status/2107325227596480718?s=20

韓国のある方が、「自分は本当に文章を読むのが好きなのに、なぜか現代の韓国文学にはうまくついていけない。理由はわかっていて、自分がTwitterやネットコミュニティの中毒者で、そこで語られている話はもうほとんど知っているからだ。最近の文学はそこから出てきた話をそのままやっているように見えて、読んでいると恥ずかしくなってしまう」という趣旨の投稿をされていて、

それを受けて、日本文学にも同じ傾向がある、という声も上がっていました。

社会問題を題材にして、論争の勘所をおさえた架空の世界をつくり、思考実験をして、ほどよい落としどころを見つける。よくできているし評論もしやすいけれど、結局は予想の範囲内に収まってしまうのだ、と。

この話、言いたいことは、わからなくもないのです。

でも同時に、「そもそも文学ってそういうものだろう」とも思ってしまいました。

ーーー

たとえば「人それぞれの多様性を尊重しましょう」なんて、みんながすでに知っていることです。

でも、その言葉をほんとうの意味で引き受けられるかどうかは、また別の話。物語というかたちで誰かの人生に何百ページも付き合ってみて、初めて腑に落ちることもあるはずです。

もちろん、登場人物がSNSのありきたりな主張を代弁するためだけに動いていたら、違和感を覚えるのはよくわかります。

とはいえ、何百ページもかけて描かれた誰かの人生を「ああ、SNSで見たあの論点ね」と回収してしまうとき、予想の範囲内に収めているのは作品の側なのか、それとも読む側なのか。そこは丁寧に考えたいなあと思うんですよね。

…と、ここまではXにも連続投稿で書いたことなのですが、今日はそのもう一歩先の話を書いてみたいのです。

ーーー

僕がおもしろいなと思ったのは、この批判が「成立してしまう」こと自体です。

「文学が、SNSの後追いをしている」。

かつては、むしろ逆のことが言われていました。インターネットは、本や雑誌やテレビで語られたことをあとから好き勝手に語り直す、あくまで二次的な場所として見られていた。

「ネットの話なんて、所詮は現実の後追い、カウンターカルチャーでしょう」と言われる側だったわけです。

それがいつのまにか、SNSで語られていることのほうが「本編」になり、メインカルチャーとなり、逆に紙の本である小説のほうが「それ、もうタイムラインで見たよ」と言われる側に回っている。

現実社会とインターネットの主従が、すっかり逆転してしまったのだと思います。

だとすれば、いま日本や韓国で現代文学が読まれ、読書(会)やブッククラブがちょっとしたブームになっているのも、メインカルチャーになったSNSに対する、カウンターカルチャーとしての動きなのだろうなあと。

そして、この主従の逆転は、もうひとつ別の大きな変化も引き起こしているように思うのです。

ーーー

そもそも20年ぐらい前のインターネットには、現実社会に自分の居場所がなかったひとたちが集まってきた、という側面があったと思うのです。

学校や職場や地元で、話の合うひとが見つからない。

自分の関心ごとを口にしても、誰にも拾ってもらえないから、そういうひとたちが、画面の向こうに「ここなら話が通じる」という相手を見つけていった場所でした。

僕自身、2010年代の前半にブログを書きはじめて、あの頃のインターネットに居場所をもらった側の人間です。先に来た側のひとり、と言ったほうが正確なのかもしれません、だから、ここから書くことは決して他人事ではないのです。

この点、先日、佐々木俊尚さんが『リベラル疲れ』という本をVoicyで紹介されていました。

https://x.com/sasakitoshinao/status/2107232869521232128?s=20 

リベラルはなぜいつも自分たちが正しいことを前提に語るのか、なぜいつも怒っているのか。その問いに、リベラルの内側にいるひとが誠実に答えた本なのだそうです。

ーーー

そのお話を聞きながら僕が思ったのは、インターネットの出自とリベラルな考え方との相性が、あまりにも良すぎたのだろうなあということでした。

既存の規範を問い直し、排除されてきた側の自由や尊厳を求める。その思想は、現実社会に居場所がなかったひとたちにとって、自分たちに都合の良い物語そのものだったはずです。

ところが、その場所がそのまま社会の中心になってしまった。

先に来て影響力を持ったひとたちを頂点に置いたまま、です。

すると、かつて既存の規範に異議を唱えていた側が、今度は「正しさ」を示す側に回ることになる。

これは、リベラルという思想が悪いという話ではなくて、どんな理念のもとにつくられた場所であっても、そこが中心になれば、その外側に周縁が生まれてしまう。

そういう、構造の話なのだと思います。

ーーー

その結果として2026年現在は、逆に「インターネットに居場所がないひとたち」がたくさん生まれているのだと、僕は思うのです。

ここで言う「居場所がない」は、ネットを使っていないとか、使いこなせないという意味ではありません。

むしろ毎日SNSを開いているし、そこで語られている論点なんかも、ひと通り理解している。それでも、ここに自分の居場所があるとは、どうしても思えない。

特にXやInstagram、YouTubeやTikTokに、です。

以前なら、現実社会で評価されていなくても、身近に話の合うひとがいなくても、インターネットに書けば誰かと出会えた。

ところが、インターネットが社会の中心になり、そこでの影響力が現実の仕事や評価まで左右するようになると、ネットのなかでも「すでに注目されているひと」がますます強くなっていきます。

ーーー

欲しいのは、べつに大きな影響力なんかじゃないんですよね。自分の書いたものを読んでくれる誰かと、話の通じる数人がいてくれたら、それだけでよかったはず。

なのにいまは、そのたった数人に届くためにさえ、まず影響力が求められてしまう。以前だったらインターネットでつながれたはずのひとたちが、つながれなくなっている。

言い換えると、現実社会に居場所がないひとたちのための場所だったはずのインターネットが、今度は、そこに居場所がないひとたちを生み出しているわけです。

しかも、かつて現実社会に居場所がなかったひとが、ネット上では強者、つまりインフルエンサーになっていても、本人のなかでは、自分は今も弱い側、既存の権力に抗う側だという認識が残りつづけることがある。

でも、あとから来たひとにしてみれば、「この空間では、お前らこそが強者だろ、ダウト」ってなるわけです。

このねじれは、先に来た側ほど気づきにくいのかもしれません。

ーーー

文学フリマの盛り上がりや、紙の本やZINEをつくるひとが増えているように見えることも、僕にはこの流れのなかにあるように思えます。

そこでは、フォロワー数とは別の経路で、自分の言葉が誰かに届いていくわけです。

これを「デジタルに疲れたから、アナログに回帰している」と説明してしまうと、大事なところを取りこぼしてしまう気がします。

以前ならインターネットに向かっていたはずの「書きたい」「誰かと出会いたい」という欲求が、いまはあの会場に向かっている。

かつてインターネットでできたはずのことを、紙の本とリアルな場所でやり直している感じ。

「昔ながらのインターネット的な居場所」を探した結果、紙の本と文学フリマ、及びその周辺に広がる読書会たどり着いた。

そう捉えたほうが、実感に近いのではないでしょうか。

ーーー

蛇足かもしれないですが、これは街で考えると、わかりやすい気がします。たとえば、吉祥寺や中目黒のような街を思い浮かべてみて欲しいのですが、

小さな個人店が点在していて、それぞれのお店に店主の趣味や価値観が滲んでいた街の代表格。

そういうところが好きなひとが集まった結果、今度はその街自体がメディアで人気になり、メインカルチャー化していく。

同じ街なのに、気づけば居心地がガラッと変わってしまうわけです。

すると、そこにあったような小さなお店やつながりを求めて、また少し離れた場所へとひとが移っていく。

自分が求めているものはそんなに大きく変わっていないのに、居場所のほうがズレていくわけです。

いま、紙の本や文学フリマに向かっているひとたちにも、似たことが起きているんじゃないかと思うのです。

ーーー

そして、クローズドなコミュニティの読書会も、その延長にあるように思います。

そのような読書会で手に取られるのが、いま同じ社会を生きているひとたち(インターネットに居場所がない人たち)のモヤモヤを描いた現代文学であることも、自然なことなのだろうなあと。

そして、ここで冒頭の話に戻ってきます。

同じ論争を毎日のように眺めながら、どちらの陣営の言葉にも自分の実感をうまく預けられなかったひとにとって、小説はまったく違うものに見えているはずです。

口にする前に立場を判定されてしまいそうな戸惑いや矛盾が、ひとりの人間の人生として、何百ページもそこに居つづけてくれるのですから。

題材がSNSと同じであることは、そのひとたちにとっては、逆説的な入口になっているのだと思います。

だからこそ、この揺り戻し自体を「SNSの焼き直しだ」と否定してしまったら、それこそ本当に、もう誰も本を読まなくなってしまう。

ーーー

もちろん、紙の本とリアルな場所だって、いつまでも周縁のままではいられないのでしょう。そこが賑わいや中心、メインカルチャーになっていけば、きっとまた同じことが起きるはず。

このように、居場所がないひとの居場所というのは、中心が移動するたびに、その外側に生まれ直しつづけるものなのかもしれません。

インターネットやSNSが社会の中心になったあと、その周縁はどこに生まれるのか。

影響力を経由しなくても、ひととひととが素直に出会える場所は、どうすれば残していけるのか。

あの頃のインターネットに居場所をもらったひとりとして、この問いはこれからも考えつづけていきたいなあと思っています。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。