文章を書くという行為は、本当に不思議です。

自分で文章を書いてみるまでは、書き手の頭の中にあるものをただ紙面にコピー(言語化)して書いているに過ぎないと思っていました。

でも、実際のところは全くそうではない。

書き手は、常に何かに促されるように書いています。

書き出す前は、自分でさえ何を書こうとしているかさえ、さっぱりわからない。

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この点、以前読んだ若松英輔さんの『不滅の哲学 池田晶子』の中にとても興味深いことが書かれていました。

「誠実な書き手は、自分の記す言葉が、いつも自己以外の、別なところからもたらされているのを知っている。むしろ、何者かに言葉を託された者を『書き手』と呼ぶべきなのかもしれない。」

このお話は一語一句、同意します。

もし、物書きにとってゾーンのようなものが存在するとすれば、こうやって何者かによって導かれて書いているときがゾーンに入っている状態なのだと僕は思います。

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では、その私に書かせている存在とは、一体何者なのでしょうか。

僕は、それこそが「未来の自分」だと思っています。

本来、時間とは未来から過去に向かって流れているという話と非常によく似ていて、

川の上流(未来)にいる自分が、川の下流(現在)にいる今の自分に対して、書くための素材を流して書かせているにすぎない。

今の自分は、上流(未来)から流れてくるその素材をせっせと拾い集めて、文章という形に落とし込んでいるだけなのだと思います。

この点、内田樹さんの『街場の文体論』という本に書かれていた、以下の表現がとても理解しやすかったのでここでも引用しておきます。

「ことばを紡いでゆくときに、語句は必ずしもクロノロジックに、現在から未来へ向かって配列されるわけではない、ということです。(中略)僕たちが文を書いているときに、『今書いている文字』が『これから書かれる文字』を導き出すというよりはむしろ、『これから書かれるはずの文字』が『今書かれている文字』を呼び起こしている。」

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 さて以上のように考えてくると、次の疑問は「じゃあ上流から流れてくる構成要素、つまりその水の最初の一滴は何なのか」という疑問です。

いまの自分に書かせている未来の自分とは、果たして一体何によって構成されているのでしょうか。

これもたぶん、川の流れで考えると非常にわかりやすいのですが、それは間違いなく「過去に下流まで流れていた水」がその正体であるはずなのです。

その川の水が大海まで流れ出し、水蒸気となって雲になり、雨に変化して山へと降り注ぎ、長い時間をかけて濾過されたものが、また最初の一滴としてまた流れてきているわけで。

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このように考えてみると、逆説的ではありますが、「未来の自分」もなんだか素直に信じられるようになります。

なぜなら、それらは同じ水であり、ただ循環しているだけなのだから。

「はじめから、自分なんてものは一切存在しなかったのだなあ」と素直に納得できるはずなのです。

そして、ここまで来ると、過去の歴史を学ぶことがそのまま「未来の自分」を理解することにもつながるということも腑に落ちる。

過去の物書きもみんな、彼らにとっての未来、つまり今のこの世界から流れてきた要素を受け取って書いていたのだから。

誤解を恐れず、もっと傲慢な書き方をすれば、この私こそが彼らにとっての「未来の私」であり、彼らに書かせていた張本人でもあると言えるわけです。

そうやって、これまでもこれからも繋がっていく。

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この流れ(循環)の中に素直に身を置くこと。そして、流れる水の本質とは何かを知る。

それが書くという行為の実態のような気がしています。

今日のお話がいつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、何かしらの考えるきっかけとなったら幸いです。